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Channel: 阪神ファンの障碍(害)者アスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記
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松井に古巣ヤンキースが「ワンデー・コントラクト」(「引退試合」)の舞台でイチローと初共演も!

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 伝統のピンストライプで両雄が並び立つ-。日米20年の現役生活にピリオドを打った松井秀喜外野手(38=前レイズ)に、古巣ヤンキースが松井と 1日限定の契約を結ぶ「ワンデー・コントラクト」という制度で、「引退試合」の舞台を検討していることが、28日(日本時間29日)分かった。実現すればイチロー外野手(39)と初のピンストライプ共演となりそうだ。
 ヤクルトのつば九郎がFA残留後、初めて公の場所「大井競馬場」に姿を現し、引退を表明した松井秀喜外野手に対して「ぼくがかわりにめじゃーにいきます。やくるとでまってます」と勝手にフロント入りのオファーをし、戦力補強を画策していた。
 松井秀喜外野手と同じ石川県出身で星稜高校の後輩でもある巨人・高木京介投手(23)が29日、同校で自主トレを行い、「少しでも近づけるように努力をしなくてはいけない」と語った。新背番号「28」のジャージー姿を見た山下名誉監督から「28」になったのか。頑張ったじゃないか」と、お褒めの言葉ももらった。
記事をまとめてみました。

 伝統のピンストライプで両雄が並び立つ-。日米20年の現役生活にピリオドを打った松井秀喜外野手に、古巣ヤンキースが「引退試合」の舞台を検討していることが、28日(日本時間29日)分かった。キャンプ地のフロリダ州タンパで開催する来春のオープン戦が有力で、 1日限定で背番号「55」も復活する可能性が出てきた。実現すればイチロー外野手(39)と初のピンストライプ共演となりそうだ。
 松井がヤンキースのユニホームで有終の美を飾る? メジャーデビューを刻み 7年間過ごした古巣が、功労者のために粋な演出の準備に入った。松井と 1日限定の契約を結ぶ「ワンデー・コントラクト」という制度で、日本流にいえば「引退試合」。ファンに祝福されながら、最終所属をヤンキースで終えるプランだ。
 ヤンキースは松井との「再契約」に異存はない。引退発表した前日27日(同28日)には、松井がメジャーで所属した 4球団で唯一、公式コメントを発表した。しかも主将ジーター、スタインブレナー・オーナー、キャッシュマンGMが連名で引退を惜しむ言葉を寄せた。地元ニューヨークにおける松井の影響力はそれだけ大きく、偉大なOBとして認められた証拠だった。
 「ワンデー・コントラクト」の歴史はまだ浅く、契約を結んでも始球式で終える例が大半を占め、実際にプレーするケースはまれだ。ただ松井は、引退会見で「引退という言葉は使いたくない。まだ草野球をやる予定もありますし、まだまだプレーしたいです」と話したように、体はある程度動ける状態にある。「ワンデー-」は公式戦でも可能だが、選手登録の関係で試合出場は難しい。一方、オープン戦ならマイナー契約でプレーが許されている。松井の希望次第では、守備に就くことも可能だ。
 順調なら来年 2月にも再びピンストライプの勇姿が見られそうで、「55」は今季付けたマーティン(パイレーツ)がFA移籍し、松井が背負うことに支障はない。イチロー、同学年の黒田とはチームメートになる。イチローとは過去、日米野球や米オールスターで同じチームになったことはあるが、 2度のWBCは不出場のため、試合で同じユニホームを着たことはない。日本シリーズ、メジャーでも同じア・リーグの宿敵として火花を散らした「イチマツ」コンビだが、実現なら1日だけ貴重なツーショットに納まることになる。


◆松井とイチローの共演
 プロ入り後、最初の対戦となったのが1993年 3月16日のオープン戦。当時 2年目のイチローは、本名の鈴木でオリックスの 9番中堅、新人だった松井は巨人の 7番左翼で先発出場した。オープン戦以外では、1996年の日本シリーズ、1994~2000年のオールスターで対戦している。メジャーでの対戦は通算91試合。最初は2003年 4月29日のヤンキース-マリナーズ戦で、今年 7月22日のレイズ-マリナーズ戦が最後。この試合ではイチローが 2番右翼でフル出場、松井は 9回二死から代打で出場して遊飛。これが松井のメジャー最終打席となった。
 ほとんどが敵と味方に分かれての対戦だったが、1996、1998年の日米野球では同じ全日本のメンバーとして戦っている。1996年は 4試合、1998年は 7試合にそろって出場。1996年11月10日には 3番中堅イチロー、 4番右翼松井と初めて 2人の名前がスコアボードに並んだ。1998年は 3番イチロー、 4番松井が 4試合あり、11月15日第 7戦の 3回には 2人が連続適時安打を放っている。メジャーのオールスターでは2003、2004年に同じア・リーグの選手で出場。2003年はイチローが 1番右翼、松井が 7番中堅で先発した。


$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-つば九郎
 大井競馬場で東京大賞典の「ガチ予想」をするつば九郎

 ヤクルトのつば九郎がFA残留後、初めて公の場所に姿を現した。この日大井競馬場で行われた東京大賞典の“ガチ予想”に参加。ヤクルトを優勝させるため残留したが、「じゃにーずからおふぁーがなかった」と真の? 理由を説明した。しかし、一連の騒動で球団マスコットとしての勤労意欲は高まった様子。引退を表明した松井秀喜外野手に対して「ぼくがかわりにめじゃーにいきます。やくるとでまってます」と勝手にフロント入りのオファーをし、戦力補強を画策していた。

 日米20年の現役生活にピリオドを打った松井秀喜外野手の功績を巡って殿堂論争が勃発した。米NBCスポーツ電子版は28日、「マツイに関しては論争になるのでは」と殿堂入りの可能性も 0ではないとした。松井は今季でメジャー在籍10年の殿堂資格をクリア。 2017年オフには有資格者として投票リスト入りが濃厚だが、通算 175本塁打のメジャー実績だけなら物足りない。ただ同電子版は「日米合わせたら殿堂級」と計 507本塁打、1649打点をマークし、1250試合連続出場の功績にも敬意を表した。
 事実、米国では過去にも黒人リーグの名選手が多く殿堂入りしており、必ずしもメジャー実績がすべてではない。同電子版は2009年ワールドシリーズMVPなどの活躍も含め、「マツイとイチローには成功物語がある」と日本人メジャーでは別格に位置付ける。「殿堂の前にNational(国の)の形容詞が付く以上は、公式的に国外成績を実績にカウントするのは難しいだろう」と殿堂へのハードルは高いとしたが、今後は日米通算の解釈について、検討の余地があるとした。

 先輩の「心」、受け継いでいきます-。松井秀喜外野手と同じ石川県出身で星稜高校の後輩でもある巨人・高木京介投手が29日、同校で自主トレを行った。高校時代には左の長距離砲として「ゴジラ2世」と呼ばれた。前日28日朝の松井の引退会見は、テレビ画面を食い入るように見つめて「言葉をかみしめて聞いて、グッと来ました」と言う。「松井さんになれるわけがない。お会いしたこともないし、比べるなんておこがましい。後輩なだけです」と謙虚に構えつつ、偉大な先輩も過ごした母校で、高木京は決意を新たにした。
 高木京 少しでも近づけるように努力をしなくてはいけない。成績はもちろんですけど、きっと野球に対する取り組み方や姿勢で、多くの野球人だけじゃなく、あれだけ多くの人に愛されたんだと思う。後輩として、自分も恥じないように野球に取り組んでいく。それだけは絶対に守ろうと、あらためて思いました。
 今季は新人ながら中継ぎとして34試合登板で防御率0.57と活躍し、年俸も2000万円(金額は推定)と1200万円もアップした。母校に帰ると、新背番号「28」のジャージー姿を見た山下名誉監督から「28」になったのか。頑張ったじゃないか」と、お褒めの言葉ももらった。
 それでも、浮かれはしない。松井先輩の姿に、抱き続けてきた「野球だけやってればいいんじゃない。みんなが応援したくなるような、愛される選手になりたい」との思いは間違いではないと、確信を得た。同郷かつ星稜の後輩として、日本で、米国で、多くの人に愛された憧れの先輩の思いを継承し、これからも真摯(しんし)に野球に打ち込んでいく。


◆今季の高木京の活躍
 国学院大學からドラフト 4位で入団し、開幕 1軍を果たす。 4月に左肩痛で 2軍落ちしたが、 6月に 1軍復帰。貴重な中継ぎ左腕として頭角を現し、 7月 7日阪神戦でプロ初勝利を挙げた。 9月16日阪神戦(東京ドーム)では 4- 2の 7回二死満塁でアニキ・金本を空振り三振に仕留め、22試合連続無失点のセ・リーグ新人タイ記録をマーク。その後、記録を29試合まで伸ばした。日本シリーズ第 6戦では 7回のピンチに登板して無失点に抑えて勝ち投手になるなど度胸満点の投球。今季は34試合に登板し 2勝 1セーブ、防御率0.57。来季の背番号は「57」から「28」に変更となった。実直な人柄で先輩たちからかわいがられ、「マキバオー」「ジミーちゃん」などの愛称を持つ。


 元レイズ・松井秀喜外野手を1993年のプロ入りから現在まで取材しているメジャー担当・四竈衛記者(47=サンスポ)が、引退を決意した背景に迫ります。
 巨人時代から一貫して「個」より「チーム」を重んじてきた男が、チームに必要とされない現状を目の当たりにした時、苦渋の決断に至った。
 ある意味で、松井らしい決断なのかもしれない。一般的に、第一線で活躍し続けてきた選手が、引退を決意する際、その多くは「その瞬間」が訪れるという。プレー中に、体力的な変化や、フッとした気持ちの途切れを実感し、覚悟が決まる。松井の場合、「その瞬間」は、恐らくない。ただ、松井は常に「チームに必要とされ、勝利に貢献すること」を、最大のモチベーションにしてきた。メジャーからのオファーがない現在、これ以上、自分個人だけのためにプレーを続けることに、意義を見つけられなかったに違いない。
 プロ入り当時から、大きな使命を背負ってきた。1992年、ドラフト 1位で巨人から指名され、長嶋監督(当時)からスーパースターとしての考え方、姿勢をたたき込まれたことで、松井の認識はさらに高まった。当時はサッカーや相撲人気が急激に高まり、野球人気の低下が叫ばれていた時代。「子供たちに夢を与えたい」。星稜高時代、甲子園で 5打席連続で敬遠されても表情を変えなかった18歳の松井は、その時点で「個」を捨て、球界全体の発展を見据えていた。
 その後、メジャーでも好成績を残し、球界を代表する特別な存在となった。だからこそ、自分の引き際には、熟考する時間が必要だった。今回、メジャーが無理であれば、日本復帰などの選択肢もあった。移籍先が決まらなかった昨オフは、バッティングセンターなどで打ち込んだものの、満足できる練習量には程遠かった。実際、レイズの3Aダーラムで思うような結果が出なかった際には、「だってキャンプをやってないんだからね。無理だよ」とこぼすこともあった。やり尽くした感覚や体力の限界を痛感したわけではない。
 今オフ、年末ギリギリまで悩み抜いたのも、「キャンプでしっかり練習したい」との思いを捨てられなかったのが最大の理由。最後まで自らの可能性だけを探るためだけであれば、どんな条件でも受け入れられる。ただ、必要とされ、勝利に貢献できない限り、自らの存在価値は見いだせない。現役続行のためには、自分から売り込むのではなく、求められる「オファー」が必要だった。
 数々の遅刻歴が物語るように、常にマイペースと言われてきた松井だが、誰よりも「人」や「縁」を大事にしてきた。星稜高時代は山下監督に厳しく育てられ、巨人では長嶋監督、ヤンキースではジョー・トーリ監督に師事するなど、野球人としてだけでなく、人間として尊敬できる恩師と出会い、野球観を培ってきた。「本当に人に恵まれてきたと思います」。人との出会いや縁に運命を感じてきた松井が、オファーのない現状に引き際を感じるのは、ある意味で自然だったのかもしれない。


 「ワンデー・コントラクト」で松井の引退試合を計画したり、殿堂入りを検討したりと忙しい松井の周囲。実際その資格は十分に有るのだろう。実現したら凄いでしょうね。
 昨日のブログにも書いたけれど、ゴジラ松井に「お疲れ様でした。今まで球団を問わず皆に夢を与えてくれてありがとうございました」と一言送りたい。






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 プロ野球はシーズンオフに入りましたが、これからもニッポン放送では、夕方 5時30分からの「ショウアップスポーツ」の中で、契約更改情報、移籍情報、キャンプ情報、そして、WBC情報など、野球の最新情報をたっぷりお伝えしてまいります。







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