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Channel: 阪神ファンの障碍(害)者アスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記
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下町八社福参りに参加します…(1)

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 NPO・東京都ウオーキング協会の例会では、 1月初めに毎年「福参り」を幾つか行っているのですが、今年最後の「福参り」は 9日に行われる「下町八社福参り」です。距離は、16kmと少々長くなっています。
 この中には、「日本橋七福神」に入っている神社「水天宮」「小網神社」の 2社が入っています。 4日に予定していた「日本橋七福神」を中止にしたので、ちょうど都合が良いかも知れませんね。
 今回の「下町八社福参り」は、 7日 8日と二日間にわたって行われた「東京十社初詣」と違って団体ウォークになっていますのでお弁当持参での参加となります。また、距離が長くなっていますが、誰でもウォーキングができる様に 9:00集合-14:30頃解散というスケジュールになっており、休憩を取りながらのウォーキングになっています。役員は 8:00集合になっています。参加者の人の中には、役員と同じ位の時間に来て受付を待っている人もいます。

$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-第 7回 下町八社福参りコース案内
 こちらが、「下町八社福参り」コース案内です。

 これらの神社等を調べてみました。
▼下谷神社:東京都台東区東上野三丁目にある神社。現在の社殿は東京都道463号上野月島線(浅草通り)沿いに建っていて大年神と日本武尊を祭っている神社。
 古くは下谷稲荷社と呼ばれていた。東京地下鉄銀座線の稲荷町駅にも名を残す旧町名の稲荷町は、この神社があったことからついた町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅 4尺 1寸の千貫神輿といわれ、大きな威容を誇る。
 社殿の天井画は横山大観の作。また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため、本神社には「寄席発祥の地」の石碑がある

▼小野照崎神社:平安初期の儒学者であり、歌人である小野篁公を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。
  852年(仁寿 2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。寛永年間(1624-43年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に御遺跡を留められたことから「上野殿」と尊称され、祀られたのが当社の創始です。遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、江戸二十五天神の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている

▼鷲神社:東京都台東区千束三丁目にある神社で、江戸下町を代表する神社で、開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ「おとりさま」と称され、古くから江戸下町の民衆に篤く尊信されてきました。
 この神社は言い伝えによれば、古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したとされるが、実際は隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まるという。江戸時代中期から酉の市で知られ、東京都足立区花畑七丁目の大鷲神社の「おおとり」に対し、鷲神社は「しんとり」と称された。明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社となった歴史が有る。
 酉の祭、酉の市で知られる鷲神社は「浅草名所七福神」のひとつ寿老人をお祀りしています

▼東禅寺六地蔵:江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元が病気平癒に感謝して造立を発願し、多くの人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に勧請したものである。全身にある陰刻から神田鍋町の鋳物師太田駿河守正義によって鋳造されたことがわかる。本像の高さは2.71メートル、品川寺(ほんせんじ)に次いで第二番の宝永七年(1710年)に造立された。他の六地蔵は鍍金が施されているのに対し、記録では本像は像の表面を布目条にやすりをかけ、弁柄色の漆を塗った上に金箔を置いたあとが残っていたとある。永年に風雨により、損傷が著しかったため、平成十一年に修復工事を行った。胎内仏として小型の銅造六地蔵菩薩坐像等が現存する。
 江戸六地蔵は、深川の地蔵坊正元が江戸市中から浄財を募り、旅人の安全を祈願して、各街道の入口にある寺院に建立したもの。
 奥州街道の東禅寺の他、品川寺(東海道)、太宗寺(甲州街道)、真性寺(中山道)、霊巌寺(千葉街道)、永代寺(千葉街道)にあったが、明治元年(1867年)、永代寺は廃寺となってしまった。


▼今戸神社:今戸神社は、康平六年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(1923年) 9月 1日の関東大震災や大東亜戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年) 3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は昭和46年(1971年)に再建されたものである。昭和12年(1937年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では「浅草名所七福神」のひとつ福禄寿も祀っている。
 今戸神社は、招き猫発祥の地のひとつとしても知られる。伝わっているところによると、江戸時代末期、界隈に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして売ったところ、たちまち評判になったという。これが招き猫の発祥とも言われ、現在では今戸神社は招き猫発祥の地として多くの招き猫が奉られている。また、焼物として使うこの土地の粘土が良質の物だった事から、今戸焼が栄えた事もある。

▼隅田公園東京都の隅田川沿いにある公園で、右岸の台東区浅草、同区花川戸、左岸の墨田区向島にまたがる。春には桜が満開になり、夏には隅田川花火大会が行われる。

▼第六天榊神社:東京都台東区蔵前にある神社。景行天皇の時代、日本武尊が東夷征伐の折に創祀したという。 江戸時代、埋め立て用の土を得るため鳥越の山を崩す際に蔵前に移る。享保4年(1719年)に現柳橋 1丁目の地に移る。 昭和3年、現在の地に移る。
 かつてこの地には官立の図書館浅草文庫があった。浅草文庫は明治14年 5月に閉館、その後は東京職工学校(後に東京高等工業学校、現東京工業大学)の敷地となっていた。東京高等工業学校は関東大震災後に目黒区に移転している。
 社伝によれば、景行天皇の御代、日本武尊が皇祖二柱の神を祀ったことにはじまるという。もとは浅草鳥越の岡にあり、鳥越神社・熱田神社とともに鳥越三所明神と呼ばれていた。しかし、徳川家康の江戸入府以来、鳥越の岡は造成のために順次取り崩され、正保 2年(1645)年鳥越三所明神に移転が命じられた。この時、鳥越明神だけが旧地に残り、熱田神社は山谷に、第六天社は堀田原に遷座した。明治 6年(1873年)社号を榊神社と改めた。

 ここまでは、浅草地区のウォーキングになっています。後は、徐々に日本橋方面から佃島方面へと移動します。
 それは、下町八社福参りに参加します…(2)でお送りします。しかし、浅草地区に八社の内こんなに固まっているのに遠く飛んで、日本橋方面や佃島までなんてなんて広い地域の「福参り」なんでしょうね。












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