12月 4日に、「東京府荏原郡」に有った「荏原七福神めぐり」に行って来ました。
(ここより、青色の文字をクリックすると関係の有るサイトへジャンプします。)
「東京府荏原郡」とは、今の品川区の一部及び大田区辺りの事です。実際、虎ちゃんが済んでいる辺りは昔「東京府荏原郡馬込村」と呼ばれていたそうです。
東京府荏原郡マップ
ここに平成 3年に生まれた新しい「七福神」コースの「荏原七福神めぐり」と言う物が有り、商店街の中に有ったりしていますのでお正月になったら歩くのも大変かも知れないな…と、思いました。
何と言っても平成 3年生まれですので、近所だと言うのに虎ちゃんは今まで 1回も回った事が無かったのです。
荏原七福神巡りマップ
JR大井町駅をスタートして、最初の目的地である「大井蔵王権現神社」迄は直ぐでした。
この神社には、「荏原七福神」の「福禄寿」が祀られています。
江戸時代に、江戸の町では家事や疫病が流行ったとき、この地域は大井村の権現神社の天狗のおかげで無事だったと言われています。その後、人々は天狗に感謝して権現神社のお祭りには太鼓を叩いたり、天狗を祀った御輿を担いだりしてきました。今ある神社の発祥はその時の名残です。
ここで参拝した後、次の目的地「東光寺」までも直ぐでした。
こちらが「東光寺」の山門です。
山門の横の塀には、「村から町へ」というタイトルで東京都品川区のこの辺りの説明が書かれていました。
「東光寺」には、七福神の毘沙門天だけではなく、参道の中程に「下の病気」にならないようにと東司(便所)の守護神「烏樞瑟摩(うずさま)大明王」も祀られていました。これが本当の「トイレの神様」という訳ですね。
「大仏(おおぼとけ) 如来寺」に行く途中で、伊藤博文公の墓所が有るので立ち寄ってみました。
墓所の扉が閉まっていたので、外から撮ってみました。お墓の近くには、伊藤博文公の胸像が有りました。
ここを後にして「如来寺」に向かいました。
「如来寺」に到着すると「大仏 如来寺」と書かれていますが、これは 5体の大仏が御本堂(御應殿)に祀られており、「だいぶつ」とは読まずに「おおぼとけ」と読むことになっています。
また、御本堂に向かう途中に「布袋尊」の石像が有るためここで引き返す人もいるそうですが、絶対に奥まで進んでいって貰いたいと思っています。
この辺りは、虎ちゃんにとって地元と言っても良い地域です。
奥まで進むことで、このお寺の「大仏様」を拝む事ができますし、その足下に横になっている「布袋尊」を拝む事ができます。
一緒に回った人に、「必ずここまで連れてきてくださいね。そうして大仏様を必ず拝む様にしてください」と話しをしました。それじゃなければ、ここに来たのが勿体ない事になるからです。
せっかくお正月に七福神めぐりをしてここに来る以上は勿体ない事にならない様に注意して欲しいですね。
如来寺は寛永(1624-44)年間に木喰但唱が、芝高輪に創立した寺で、但唱の発起によって造立された五智如来が 安置されているところから、俗に高輪の大佛と呼ばれ、明治41年(1908)年に現在地に移転しました。
大壇越に大和高取藩主植村侯があり、歴代の墓域があります。
養玉院は寛永12(1635)年に創立された、上野寛永寺の塔頭三明院がその前身で、開山として天海を迎えていますが、 寺を創立したのは天海の弟子賢海、二代目は賢海の弟子念海であります。
元禄11(1698)年に下谷坂本に移って養玉院と改め、この頃対馬の領主宗家の菩提寺となりました。
大正12(1923)年如来寺と合併して、現在の場所に移りました。 両寺を一寺とした、当山先代の瑞應院大僧正亮中大和尚を中興第一世としています。
次に「上神明天祖神社」へ向かいましたが、今まで以上の距離の所に有りました。と言うよりも、今まで近所にあったのですがここから先は距離が離れています。
この続きは、正月前に「東京府荏原郡」に有った「荏原七福神めぐり」に行って来ました(2)へ続きます。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
↧
正月前に「東京府荏原郡」に有った「荏原七福神めぐり」に行って来ました(1)
↧