去る 3月に、JR東日本の駅からハイキング&ウォーキング「三鷹発!未来と自然と歴史を堪能するウォーキング」に参加してきました。
今回のコースマップです。当日は、雨上がりの中(一時小雨をが降りました)をウォーキングしましたので、コースが濡れているのが分かります。
JR中央線・三鷹駅をスタートして、「霊泉山 禅林禅寺(通称=禅林寺)」に向かいました。
こちらが、禅林寺さんの山門とその側に有った碑です。
禅寺と言う事は、このお寺は禅の学習寺で有る事が分かります。禅林寺のサイトによると、禅林寺の紀元が次の様に書かれていました。
元禄十二年(一六九九)八月台風のために建物が倒壊したので、松之坊は寺社再建不可能のために寺社地を村方へ返還した。
そこで村方一同は協議の末、江戸本所石原に在った黄檗宗賢洲元養禅師に寺社建立のことを懇請した。かくして村方一同より官へ願い出で、元禄十三年十二月、黄檗宗霊泉山禅林寺と改称、江戸神田紺屋町駒田孫右衛門が開基となって堂宇伽藍の経営も着々と進み、当時天下の大小名より尊信を集めていた黄檗大眉門下の梅嶺道雪禅師を請して開山とし、賢洲禅師自ら第一代となり宗風の宣場につとめ、黄檗宗大本山万福寺の直末寺となり、現在に至る。
八幡社とは明治初年の「神仏分離」令によって分離し、塔頭で あった松仙院(八幡社を管理)と円通庵は廃仏毀釈のころ本寺に合併した。
山門をくぐると、直ぐにこの石碑が目につきました。
上の石碑の先に、この碑が有りました。「森林太郎(森鴎外の本名)」の名が入っています。
「禅林寺 境内マップ」を見てみると、この石碑は「森鴎外遺言碑」なんですね。
更に奥に進み、方丈の横から墓地に向かいました。
墓地に入口には、「森鴎外遺言書」等が展示されていました。
ここに書かれた言葉が、先ほどの碑に書かれていたのです。
太宰治と森鴎外の墓碑です。先ほどの「禅林寺 境内マップ」を見てみると、位置がわかりますね。
今回は「JAXA調布航空宇宙センター」は休みだし、右膝の具合が悪かったので「深大寺」方面に向かうのを断念して、「丸池公園」,柴田勝家ゆかりの「勝淵神社」方面へ進路を取りました。
「勝淵橋」方面へ向かう途中にこの案内板が有ると書いて有りましたが、雨で濡れていて読めずに一度は通り過ぎましたが、今一度コースマップを見て戻り撮ってきました。
こうやって撮ってみて分かったのは、「勝淵神社 丸池公園 →」と書かれていました。肉眼では読めなかったのに、レンズを通すとこの様に読めるんですね。
「勝淵橋」に着きました。この橋を渡って「丸池公園」「勝淵神社」へと向かうのです。
「丸池公園」に到着しました。公園にはこの案内板が有りました。
「丸池公園」の案内板です。
「丸池公園」の「丸池雑木林」です。「勝淵神社」を囲む様になっていました。
柴田勝家ゆかりの「勝淵神社」です。小さな神社でした。
「天正十一年(1583)織田信長の重臣柴田勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城に於て自刃したが、その折、孫の権六郎(三歳)に愛用の兜を与え郎党を供に、上野国の外祖父日根野高吉の元に遁す。権六郎十六歳にして元服、柴田三左衛門勝重と名乗る。慶長四年(1599)徳川家康は勝重を召し出し、上野国群馬・碓氷両郡のうち二千石を与える。慶長五年(1600)勝重は関ヶ原の戦いに初陣、更に慶長十九年(1614)大阪冬の陣、翌元和元年(1615)大阪夏の陣に従軍し、その戦功により武蔵国多摩郡上仙川村(現新川)・中仙川村(現中原)その他合わせて五百石を加増される。上仙川村に入村した勝重公は、村の中程の台地(現島屋敷)に陣屋敷を建て住居とし、それより北方の台地水神の森に社殿を建立し、その傍らに祖父勝家公より与えられた黄金の兜を鎮めて、神霊として祭り社号を勝淵大明神とした。
以来四百年、当社は村の鎮守として村民の崇敬の念篤く代々の氏子会により護持されている。」と案内に出ていました。
「兜塚」です。(当日は写真に撮れませんでしたので、みたかナビより拝借しました)ここに柴田勝家の兜が埋められたのでしょうね。案内には次の様に有りました。
兜を鎮めた場所は、兜塚と証紙、神社縁りの史跡として保存されていたが、戦後の一時期荒廃した
為、これを憂えた氏子の熱意により昭和六十三年、現在の兜塚が再建されたもの。だそうです。
この後「三鷹の森ジブリ美術館(通称=ジブリ)」「山本有三記念館」に向かいましたが、「三鷹発!未来と自然と歴史を堪能するウォーキング」に参加してきました…(2)で紹介します。
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「三鷹発!未来と自然と歴史を堪能するウォーキング」に参加してきました…(1)
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