●阪神が、 4日に膵臓(すいぞう)がんで死去した元阪神監督で楽天・星野仙一球団副会長(享年70)の追悼試合開催に向けて、星野氏が在籍した中日、楽天との話し合いを開始したことが 7日、明らかになった。闘将がこよなく愛した甲子園での開催を軸に、日程や内容について協議を進めていく方針だ。衝撃の訃報から 3日。今も信じられないファンは多い。星野氏の雄姿がもう見られないなんて…。そんな思いが、ひとつの動きを加速する。追悼試合-。誰もが願う別れの舞台の開催に向けて、早くも動き始めていることが分かった。星野氏が2002年から 2年間、さい配を振るい、2003年にはリーグ優勝を果たした阪神も思いは一緒。同じく「闘将」がユニホームに袖を通して戦った中日、楽天両球団と連絡を取り、開催に向けて具体的な協議に入った。「闘将」が生涯で唯一の「日本一」に輝いたのは2013年の楽天。最後も楽天の球団副会長を務めていた。それだけに主導権は楽天にあり、追悼試合も仙台での開催が有力。とはいえ阪神としてもチームを大改革し、2003年に18年ぶりの「リーグ制覇」に導いてくれた功労者。故人がこよなく愛した甲子園での開催を視野に入れている。楽天の本拠地・楽天生命パーク宮城ではこの日、故人をしのぶ献花台が設けられた。午後の 3時間だけだったが、 643人のファンが駆けつけた。 9日まで設置される献花台に一体、何人のファンがやってくるのか。そんな熱きファンが、甲子園にもいる。名古屋にもいる。全国にいる。みんなが願っている。追悼試合の実現を。
●阪神OBの桧山進次郎氏(=48・韓国名は黄進煥(ファン・ジナン))がその死を悼んだ。昨年12月の殿堂入りを祝う会でお会いした時、もう 1度監督をされるんじゃないかというぐらいお元気でした。でも、星野さんはご自身の体調を分かっていたはず。2003年の阪神優勝メンバーと一緒に壇上に上がって、最後にみんなの顔を見ることができて良かったと思っていたのかなと思ってしまいます。今はショックで信じられません。星野さんが来られた 1年目の2002年キャンプイン前日、部屋に呼ばれました。ほぼ初対面でしたが全身が引き締まりました。それまではランニングでも後ろの方を走っていたのですが、次の日自然と先頭を走って大声を出していました。プロで初めて、リーダーシップに目覚めた瞬間だったかもしれません。星野さんがいなければ「タテジマ一筋22年」ではなかったかも知れません。すさまじい迫力、“ネバサレ魂”で弱かったタイガースを明るく強くして、 2年目で優勝させてくれました。今は感謝しかありません。背中で組織を引っ張られた方。その教え、生きざまは僕の中に生きています。
●元阪神監督で日刊スポーツ評論家・真弓明信氏(64)がその死を悼んだ。思い出されるのは、現役時代の対戦です。とにかく真っ向勝負で気持ちで投げてくる。こちらも気合を入れないと、打てないという一心で打席に立った。指導者としても、気持ちを注入され、それが底力になっていた。殿堂入りパーティーに出席し、野球界に大きく貢献された方だと、あらためて感じた。
●明治大學の 6学年先輩で中日時代に選手、指導者で共闘した、日刊スポーツ評論家・一枝修平氏(77)がその死を悼んだ。12月に殿堂入りを祝う会で会った時、少しやせたなと感じていた。でもあまりに突然で言葉がない。1989年オフ、私は阪神からの監督要請を諸事情があって断った。その時名古屋に呼んでくれたのが当時中日監督の仙ちゃんだった。ヘッドコーチを任されて一緒に戦ったが、中村武志らは鉄拳でボコボコ。でも期待の裏返しで愛情があったから、みんなついていったし団結していた。
●片岡篤史ヘッド兼打撃コーチ(48)が 6日、第 2のプロ野球人生の導き手となった星野氏の死を悼んだ。大阪市内で行われた母校・PL学園高校(大阪)硬式野球部OB会に出席する前に訃報を知り、絶句。16年前を思い起こした。2001年オフに北海道日本ハムからFA宣言。同年12月17日に阪神監督に就任したのが星野氏だった。受諾直後の同19日に星野氏はFA交渉に出馬。都内のホテルで昼食をともにしながらの会話が「阪神片岡」誕生を決定づけた。 2季目の2003年に「リーグ制覇」。野球人生を飾る思い出をつくった。闘将・星野を語る言葉はつきなかった。
●岩貞祐太投手(26)が 7日、甲子園での自主トレを再開した。昨季は「5勝(10敗)」に終わったが、改めて故・星野仙一氏(享年70)から送られたメッセージを胸に今季の巻き返しを宣言。2016年以来、自身 2度目となる「2桁勝利」を目標に掲げた。白い息を吐きながら、感謝の思いをつづった。星野氏には会えなかった。でも、あのときの“金言”は今でも宝物だ。甲子園クラブハウスで自主トレを終えた後、厳しい表情をみせた。恩師である横浜商科大學・佐々木正雄監督(68)は星野氏と親密だったが、自身は接する機会に恵まれなかった。思い出すのは昨年 6月16日の楽天戦だった。星野氏が楽天球団副会長として、甲子園に観戦に訪れた試合で先発し、 7回 1安打 1失点と好投。苦しんでいた中で、自身 5試合ぶりの白星となる「3勝」目をマークした。年末年始は地元・熊本に帰省したが、ほぼ無休で汗を流した。体重も食事制限をしながら、80キロ台前半をキープ。 2年ぶりの「2桁勝利」をあげる。それこそ励ましの言葉をかけてくれた、闘将への恩返しとなる。天国に届ける。
●阪神の新人 7選手が 7日、 8日から始まる新人合同自主トレへ向け、鳴尾浜で自主練習を行った。東北で生まれ育った「ドラフト1位」・馬場皐輔投手(22=仙台大學)は、気温 7度の冷え込みにもケロリ。 4日に膵臓がんで死去した元阪神監督、星野仙一氏(享年70)が楽天監督として日本一に輝いた2013年は、仙台育英高校 3年生だった。闘将の魂を受け継ぎ、暖かい関西でアツく投げる。アツい虎 1球目を投じた。多少指がかじかんでも、吐く息が白くても、「D1位」・馬場には関係ない。もっともっと寒かった東北からやってきた。そして、その地をアツくしてくれたのが、だれよりアツい“あの人”だった。自分もアツく戦うと決めた関西で、寒さなど感じるワケがなかった。暖かい!? 飛ばそうと思えば飛ばせる!? さすがは「東北人」だ。馬場らルーキー勢がグラウンドに出てきた午前10時ごろ、神戸市の気温はわずか 7.0度だった。並の選手なら縮み上がってしまうような寒さを、この大器はモノともしない。ニコニコと笑顔でアップを始めると、キャッチボールでは最大50メートルほどの距離で力強く47球を投じた。ランニングでは、たまらず上着を脱いだ。例年、暖かな地へ飛び立つキャンプインまでは、ルーキー勢は慎重な調整を求められる。だが馬場のように“寒さへの耐性”があれば話は変わってくる。 8日からの新人合同自主トレも、順調にメニューを消化していけるはずだ。最速 155キロの剛腕でありながら、 7種以上の球種を操り、アツいハートと体を持っている。燃えるように投げ、関西をもっともっとアツくする。
●プロ野球中日、阪神、楽天で監督を務め、 4日に死去した星野仙一氏をしのぶ献花台が 7日、仙台市内にある楽天の本拠地球場、楽天生命パーク宮城に設けられた。同日の設置は午後の 3時間だけだったが、球団によると 643人のファンが駆けつけて「闘将」に花を手向けた。献花台には星野氏の楽天監督時代の写真が飾られた。仙台市宮城野区の契約社員山本裕子さん(48)は涙ながらに語った。盛岡市の大学教授上村松生さん(61)は2013年に星野氏が率いる楽天が球団初の日本一に輝いた試合を球場で観戦していたという。献花台は 8、 9日も午前10時から午後 5時半まで設置される。星野仙一球団副会長の監督時代に着用していた背番号「77」を永久欠番とすることを検討していることが 7日、分かった。記事をまとめてみました。
阪神が、 4日に膵臓(すいぞう)がんで死去した元阪神監督で楽天・星野仙一球団副会長の追悼試合開催に向けて、星野氏が在籍した中日、楽天との話し合いを開始したことが 7日、明らかになった。闘将がこよなく愛した甲子園での開催を軸に、日程や内容について協議を進めていく方針だ。
衝撃の訃報から 3日。今も信じられないファンは多い。星野氏の雄姿がもう見られないなんて…。そんな思いが、ひとつの動きを加速する。追悼試合-。誰もが願う別れの舞台の開催に向けて、早くも動き始めていることが分かった。
星野氏が2002年から 2年間、さい配を振るい、2003年にはリーグ優勝を果たした阪神も思いは一緒。同じく「闘将」がユニホームに袖を通して戦った中日、楽天両球団と連絡を取り、開催に向けて具体的な協議に入った。阪神の球団首脳はこの日、「これから話を進めていくことになるでしょう。もちろん、最後は楽天球団で終わられたわけで、楽天さんと話し合わなければいけないと思っていますが」と話した。
「闘将」が生涯で唯一の「日本一」に輝いたのは2013年の楽天。最後も楽天の球団副会長を務めていた。それだけに主導権は楽天にあり、追悼試合も仙台での開催が有力。とはいえ阪神としてもチームを大改革し、2003年に18年ぶりの「リーグ制覇」に導いてくれた功労者。故人がこよなく愛した甲子園での開催を視野に入れている。
具体的な日程や内容は今後、詰められていく見通しだが、 3月のオープン戦期間中にかつて在籍した中日戦が 2試合( 9、10日)ある。現役時代も、監督としても、最も闘志を燃やして挑んだ巨人戦(11日)も候補に浮上するだろう。星野監督によって夢を見せてもらった甲子園のファンも、お別れの舞台を心から望んでいるはずだ。
楽天の本拠地・楽天生命パーク宮城ではこの日、故人をしのぶ献花台が設けられた。午後の 3時間だけだったが、 643人のファンが駆けつけた。星野氏の楽天監督時代の写真に向かって語りかけ、それぞれの思いをこめ、花を手向けた。 9日まで設置される献花台に一体、何人のファンがやってくるのか。そんな熱きファンが、甲子園にもいる。名古屋にもいる。全国にいる。みんなが願っている。追悼試合の実現を。
楽天生命パーク宮城には星野氏の献花台が設けられ、多くのファンが花を手向けた
★後日お別れの会も
楽天・星野仙一球団副会長は 4日午前 5時25分に死去した。70歳。楽天が 6日に発表した。2016年 7月に急性膵(すい)炎を発症したことをきっかけに膵臓(すいぞう)がんであることが判明。「余命90日」といわれたなか、病と闘い続けた。 6日に近親者で密葬が営まれ後日、お別れの会が開かれる予定だ。
★“仙さんウイーク” 6月12~17日有力
楽天が主催で追悼試合を開催するなら、 3月 9-11日に星野氏の故郷・倉敷でオープン戦がある。 9、10日は西武戦だが、11日は中日戦だ。また、今年の交流戦は本拠地の楽天生命パーク宮城で 6月12-14日が中日戦、15-17日が阪神戦。ゆかりの 3球団が結集して追悼ウイークとなる可能性は高い。中日は 3月 3、 4日の楽天とのオープン戦がナゴヤドーム。候補のひとつとなるか。
◇追悼試合あらかると
★村山実(阪神監督):1998年 8月22日、直腸がんのため死去(享年61)。同年 9月29日の巨人戦(阪神甲子園球場)が追悼試合となったが 3- 4で敗れてリーグ最下位に転落した。
★仰木彬(近鉄、オリックス監督):2005年12月15日に肺がんで死去(享年70)。追悼試合は2006年 3月 4日の阪神とのオープン戦(グリーンスタジアム神戸、現ほっともっとフィールド神戸)で、 8- 5でオリックスが勝利。
★島野育夫(阪神、中日コーチ):2007年12月15日に胃がんのため死去(享年63)。2008年 3月 5日の広島とのオープン戦(大阪ドーム、現京セラドーム大阪)を追悼試合とした。左膝の手術明けだった金本(現阪神監督が志願の出場で本塁打を放ち、 7- 3で勝った。
楽天の星野仙一球団副会長が 4日午前 5時25分に死去した。70歳だった。阪神OBの桧山進次郎氏がその死を悼んだ。
◇ ◇ ◇
昨年12月の殿堂入りを祝う会でお会いした時、もう 1度監督をされるんじゃないかというぐらいお元気でした。でも、星野さんはご自身の体調を分かっていたはず。2003年の阪神優勝メンバーと一緒に壇上に上がって、最後にみんなの顔を見ることができて良かったと思っていたのかなと思ってしまいます。今はショックで信じられません。
星野さんが来られた 1年目の2002年キャンプイン前日、部屋に呼ばれました。ほぼ初対面でしたが「選手会長、頼むぞ! 引っ張ってくれ」と言っていただき、全身が引き締まりました。それまではランニングでも後ろの方を走っていたのですが、次の日自然と先頭を走って大声を出していました。プロで初めて、リーダーシップに目覚めた瞬間だったかもしれません。
2003年 4月、横浜戦でサヨナラ本塁打を放った桧山進次郎外野手(右)を笑顔で抱きしめる星野仙一監督
その年のオフ、FAの相談にも乗っていただきました。「どないなってるんや」と横浜の宿舎で呼ばれました。「阪神球団からいい話をいただけていません」と言うと、「よし、俺が代理人になっていい交渉をしてやる」と。そして、星野さんは言いました。「残れ! お前が残らないと意味がない。生え抜きがこのチームを背負っていかなあかんやろ」と。チームを出ようかどうか悩んでいた時でした。星野さんがいなければ「タテジマ一筋22年」ではなかったかも知れません。
「俺について来い、必ず優勝させてやる」。すさまじい迫力、“ネバサレ魂”で弱かったタイガースを明るく強くして、 2年目で優勝させてくれました。今は感謝しかありません。背中で組織を引っ張られた方。その教え、生きざまは僕の中に生きています。(日刊スポーツ評論家)
2002年10月、阪神ホーム最終戦であいさつした星野仙一監督
楽天の星野仙一球団副会長が 4日午前 5時25分に死去した。70歳だった。元阪神監督で日刊スポーツ評論家・真弓明信氏がその死を悼んだ。
◇ ◇ ◇
思い出されるのは、現役時代の対戦です。とにかく真っ向勝負で気持ちで投げてくる。こちらも気合を入れないと、打てないという一心で打席に立った。指導者としても、気持ちを注入され、それが底力になっていた。殿堂入りパーティーに出席し、野球界に大きく貢献された方だと、あらためて感じた。監督時代にはSDとしてサポートしていただき、とても心強かった。突然の訃報で、残念です。
中日時代の星野仙一監督(左)と話す阪神一枝修平コーチ(中)
楽天の星野仙一球団副会長が 4日午前 5時25分に死去した。70歳だった。明大の 6学年先輩で中日時代に選手、指導者で共闘した、日刊スポーツ評論家・一枝修平氏がその死を悼んだ。
◇ ◇ ◇
12月に殿堂入りを祝う会で会った時、少しやせたなと感じていた。でもあまりに突然で言葉がない。
現役時代はONにも臆せず、内角を突いて打者がにらんできても、相手に向かっていく気迫を出す男だった。私は遊撃だったが、攻めの投球はリズムが良く、守っていても楽だった。
1989年オフ、私は阪神からの監督要請を諸事情があって断った。その時「大阪にいづらいでしょ?」と名古屋に呼んでくれたのが当時中日監督の仙ちゃんだった。ヘッドコーチを任されて一緒に戦ったが、中村武志らは「何で内角攻めんのや!」と鉄拳でボコボコ。でも期待の裏返しで愛情があったから、みんなついていったし団結していた。
星野仙一氏について語る片岡篤史ヘッド兼打撃コーチ
片岡篤史ヘッド兼打撃コーチが 6日、第 2のプロ野球人生の導き手となった星野氏の死を悼んだ。大阪市内で行われた母校・PL学園(大阪)硬式野球部OB会に出席する前に訃報を知り、絶句。「星野さんが監督だったからぼくがタイガースに来たのは間違いないです」と16年前を思い起こした。
2001年オフに北海道日本ハムからFA宣言。同年12月17日に阪神監督に就任したのが星野氏だった。受諾直後の同19日に星野氏はFA交渉に出馬。都内のホテルで昼食をともにしながらの会話が「阪神片岡」誕生を決定づけた。 2季目の2003年に「リーグ制覇」。「優勝を決めた試合で本塁打も打てたし、記憶にも残っています」と野球人生を飾る思い出をつくった。「野球の厳しさをもう 1度教えていただいた。(まさに闘将、と聞かれ)そのとおり。白か黒か、いいか悪いか、はっきりされていた」と闘将・星野を語る言葉はつきなかった。
岩貞祐太投手は昨年 6月の楽天戦で好投。星野氏に「参った」といわしめたのは今でも心に残っている
岩貞祐太投手が 7日、甲子園での自主トレを再開した。昨季は「5勝(10敗)」に終わったが、改めて故・星野仙一氏から送られたメッセージを胸に今季の巻き返しを宣言。2016年以来、自身 2度目となる「2桁勝利」を目標に掲げた。
白い息を吐きながら、感謝の思いをつづった。星野氏には会えなかった。でも、あのときの“金言”は今でも宝物だ。
「直接、お会いしたことはないんですが、びっくりしました。紙面とかテレビでしか見ることができなかったけど、そういう状況(がん闘病中)だったことを感じさせないようだったので」
甲子園クラブハウスで自主トレを終えた後、厳しい表情をみせた。恩師である横浜商大・佐々木正雄監督は星野氏と親密だったが、自身は接する機会に恵まれなかった。
思い出すのは昨年 6月16日の楽天戦だった。星野氏が楽天球団副会長として、甲子園に観戦に訪れた試合で先発し、 7回 1安打 1失点と好投。苦しんでいた中で、自身 5試合ぶりの白星となる「3勝」目をマークした。
「今となっては自分の投球を 1球でもみてもらえたことは光栄。そういう言葉を頂いたので、自信をもって今後やっていきたいと思います」
横浜商科大學・佐々木正雄監督
翌日、スポーツ新聞をみると星野氏の絶賛コメントが載っていた。「チェンジアップがよかった。(楽天は)ハマっちゃったね。途中から真っすぐも腕を振り出した。参った…」。一昨年「10勝」という看板をひっさげながらも、あがきにあがいていた。闘将のメッセージは、身に染みた。
年末年始は地元・熊本に帰省したが、ほぼ無休で汗を流した。体重も食事制限をしながら、80キロ台前半をキープ。「体が重いときは、ちょっと(ご飯を)少なめにしたり。いい感じできています」と手応え十分だ。
「昨年はふがいない年だったので、昨年の倍ぐらい、『10勝するぞ』という気持ちで今はやっています」
2年ぶりの「2桁勝利」をあげる。それこそ励ましの言葉をかけてくれた、闘将への恩返しとなる。天国に届ける。
★岩貞の 6.16楽天戦VTR
ソフトバンクと首位争いを繰り広げていた好調楽天打線を相手に、 7回を 1安打 1四球 1失点。 3回に三好に「1号ソロ」を浴びただけで、 6三振を奪う力投だった。 5月 3日のヤクルト戦(神宮)を最後に勝ち星がなかったが、先発 5試合ぶりにシーズン「3勝」目を挙げた。
馬場皐輔投手はキャッチボールで汗を流す。宮城出身のルーキーにとっても星野氏は特別な存在だった
阪神の新人 7選手が 7日、 8日から始まる新人合同自主トレへ向け、鳴尾浜で自主練習を行った。東北で生まれ育った「ドラフト1位」・馬場皐輔投手は、気温 7度の冷え込みにもケロリ。 4日に膵臓がんで死去した元阪神監督、星野仙一氏が楽天監督として日本一に輝いた2013年は、仙台育英高 3年生だった。闘将の魂を受け継ぎ、暖かい関西でアツく投げる。
アツい虎 1球目を投じた。多少指がかじかんでも、吐く息が白くても、「D1位」・馬場には関係ない。もっともっと寒かった東北からやってきた。そして、その地をアツくしてくれたのが、だれよりアツい“あの人”だった。自分もアツく戦うと決めた関西で、寒さなど感じるワケがなかった。
「宮城の場合は、毎年 1、 2月は、気温がマイナスや 1桁いくかいかないか。大阪(関西)なので暖かかったです。変に飛ばすとやっぱり毎年やっているリズムが崩れてしまうので、暖かいですけど、そこまで飛ばさずにと心がけてやります」
暖かい!? 飛ばそうと思えば飛ばせる!? さすがは「東北人」だ。馬場らルーキー勢がグラウンドに出てきた午前10時ごろ、神戸市の気温はわずか 7.0度だった。並の選手なら縮み上がってしまうような寒さを、この大器はモノともしない。
ニコニコと笑顔でアップを始めると、キャッチボールでは最大50メートルほどの距離で力強く47球を投じた。ランニングでは、たまらず上着を脱いだ。例年、暖かな地へ飛び立つキャンプインまでは、ルーキー勢は慎重な調整を求められる。だが馬場のように“寒さへの耐性”があれば話は変わってくる。 8日からの新人合同自主トレも、順調にメニューを消化していけるはずだ。
星野仙一氏は楽天監督として2013年にチームを初の「リーグ制覇」、「日本一」に導いた
バックスクリーン上の球団旗は、故星野仙一氏を悼み半旗。冷たい風に吹かれてビュンビュンとたなびいていたが、東北で生まれ育った馬場にとっても、星野氏は特別な存在だった。「つらい、悲しいと思いますし、楽天が優勝したとき(2013年)の監督さんですので、すごく残念なことだと思っています。(日本一は)僕も宮城県民としてすごくうれしかった」。当時、仙台育英高 3年。闘将によってアツく変えられていく東北の、熱狂の渦の中にいた。その人がかつて戦った関西で、これから馬場も必ずアツく燃える。
「やっぱりプレーで、いろんな人に元気だったり、勇気を与えられるようなプレーをしていかないといけない。自分ができる範囲で、全力でがんばりたいと思います」
最速 155キロの剛腕でありながら、 7種以上の球種を操り、アツいハートと体を持っている。燃えるように投げ、関西をもっともっとアツくする。
◇馬場 皐輔(ばば・こうすけ)
投手。1995(平成 7)年 5月18日生まれ、22歳。宮城・塩釜市出身。小 3からリトルリーグ塩釜ドラゴンズで野球を始める。塩釜三中時代は七ケ浜シニア所属。仙台育英高では 2年秋からベンチ入りし、「明治神宮大会」で優勝。翌年の「選抜8強」。仙台大學では 1年春からリーグ戦に登板し、通算「15勝5敗」。今秋は「5勝0敗、防御率0.49」でベストナイン。2018年「ドラフト1位」で阪神入団。契約金 1億円、年俸1500万円。 1メートル80、90キロ。右投げ右打ち。背番号「18」。
プロ野球中日、阪神、楽天で監督を務め、 4日に死去した星野仙一氏をしのぶ献花台が 7日、仙台市内にある楽天の本拠地球場、楽天生命パーク宮城に設けられた。同日の設置は午後の 3時間だけだったが、球団によると 643人のファンが駆けつけて「闘将」に花を手向けた。
献花台には星野氏の楽天監督時代の写真が飾られた。仙台市宮城野区の契約社員山本裕子さんは「感謝の思いを伝えに来た。選手のことを温かい気持ちで見ていたのが印象的だった」と涙ながらに語った。
盛岡市の大学教授上村松生さんは2013年に星野氏が率いる楽天が球団初の日本一に輝いた試合を球場で観戦していたという。「ごゆっくりしてくださいと伝えた。また今年、チームが頑張ってほしい。それが星野さんにも一番だと思う」と思いをはせた。
献花台は 8、 9日も午前10時から午後 5時半まで設置される。
背番号「77」のユニホームを着た星野仙一監督は写真撮影をするナインの元へ走る(2011年 2月 1日撮影)
楽天が 4日に70歳で亡くなった星野仙一球団副会長の監督時代に着用していた背番号「77」を永久欠番とすることを検討していることが 7日、分かった。
また、お別れ会を複数都市で開催することも検討中。候補地には東京、大阪、仙台などが挙がっている。詳細の決定はこれからだが、多くのファンとお別れの機会を設けるため、さまざまなプランを練っていく。
仙ちゃんがいたから中日も応援していた頃が有るし、阪神に移籍してからは阪神のみを、そうして楽天に行けば楽天も応援してきた虎ちゃんでした。仙ちゃんにお悔やみの言葉を贈らせて頂きます。
2017年度の成績を糧にして、2018年に向かって、全員野球でファン皆が待ち望む「二文字」に向かって、全員で力を合わせて進め! ガンバレ!阪神!我らのタイガース!勝利を掴め!
全身全霊を懸けて不屈の精神で立ち向かう。たとえ、どんなに苦しい局面になろうとも、最後の最後まで絶対に勝負を諦めない。
その精神を全員が強く持ち、タイガースが変革し続ける一年にしたい。そうした強い決意をスローガンとして表現しています。
※このスローガン・デザインは、2018年のシーズンロゴとしても展開して参ります。
2018年 オープン戦 日程と結果(02月)
2018年 オープン戦・公式戦 日程と結果(03月)
2018年 公式戦 日程と結果(04月)
概要
"執念"を持って優勝をめざす金本タイガース
変革し続ける1年が沖縄キャンプから始まります!
選手との記念撮影(団体撮影)や記念グッズのプレゼント などの特典もございます!
各地から参加頂けるよう新コース 「那覇空港集合プラン」を設定いたしました!
最小催行人数 各出発日20名
※詳細は、阪神タイガース公式ホームページサイトにて!