甲子園の新ドクターKが、鮮烈な記録を残して聖地を去った。桐光学園(神奈川)の松井裕樹( 2年)は、光星学院(青森)との準々決勝に先発。 2季連続準優勝の強力打線から毎回&全員の15三振を奪ったが、両軍無得点の 8回に 3失点し惜敗。春夏通じて初の 4強入りを逃した。それでも、大会新記録となった 1回戦の22奪三振を含め、 4試合連続 2ケタKで歴代左腕最多(史上 3位)となる68Kを記録。 1試合平均17奪三振をマークした怪物左腕は、来年の日本一を誓った。記事をまとめてみました。
甲子園の新ドクターKが、鮮烈な記録を残して聖地を去った。準々決勝 2試合が行われ、桐光学園の松井裕樹投手が光星学院戦で、先発。 4試合連続 2桁奪三振となる毎回の15三振を奪ったが、 0― 3で敗れた。 4強進出こそならなかったが、 4試合で68奪三振、奪三振率は驚がくの17.00。甲子園に、全国の野球ファンに鮮烈な衝撃を与え、 2年生投手の夏が終わった。
マウンドではなく、ネクストバッターズサークルで無情にもゲームセットを聞き、松井の夏は終わりを告げた。大会新記録となった 1回戦の22奪三振を含め、 4試合連続 2ケタKで歴代左腕最多(史上 3位)となる68Kを記録。1試合平均17奪三振をマークした怪物左腕は、来年の日本一を誓った。
1回表光星学院・北條史也から三振を奪う桐光学園・松井裕樹
ヘルメット姿で整列すると、感情が抑えきれなくなった。打撃用手袋でぬぐっても、ぬぐっても涙は止まらなかった。 3万9000大観衆から、計 577球で68Kを奪った今大会の主役に、万雷の拍手が降り注いだ。
「ゼロで抑えなきゃいけなかったけど、(相手打線の)振りが鋭くて…。 3年生に申し訳ないです」
涙があふれて止まらなかった。よろけながら 3塁側アルプス席へ。グラウンドを出るまで嗚咽(おえつ)は続き、視界はかすんだ。
終盤に力尽きた。 2季連続甲子園準優勝の強打の光星学院相手に、 6回まで最速 143キロで 1安打、11Kと好投し、 7回まで 3安打無失点で踏ん張った。だが、「体力が落ちてきた。腕が重くて振れなかった」という終盤。球数が 110を超えた 8回につかまった。二死 1、 3塁から田村に内角直球を打たれ均衡を破られると、続く 1、 2塁で北條に「三振を取りに行った」外角低めのスライダーを痛打連続適時打を浴びて決定的な 3点を失った。
8回表二死 1、 2塁、光星学院・北條(左)に、左中間への 2点適時 2塁打を浴びた松井裕樹
全国屈指の強力打線を相手に 154球で 6安打、15K、 3失点完投。毎回&全員奪三振は史上 7人目の快挙ながら、敗戦投手となったのは初めてだ。「悔しい…。実力が足りなかった。相手打線の振りが鋭かったです」。試合後のお立ち台でも号泣した。 3回戦までの 3試合を 1人で投げ切り、 1試合平均の球数は141球。
浦添商戦で完投した前日は、スーパー銭湯で温冷交代浴。その後に酸素カプセルに 1時間入り、マッサージも受けたが、 142球を投げた前日から猛暑の中での 2試合連投で174センチ、74キロの体力は限界だった。いつもなら投球後に軸足の左足が大きく蹴り上がったが、この日はフォームから躍動感は奪われた。この日の試合前には沖縄の塩と黒糖を摂取したが、「体が重くて腕が振れなかった」。従来と違って味方の攻撃中、キャッチボールはせず休養を優先した。
8回表二死 1、 2塁、北條(奥)に 2点適時 2塁打を浴びた松井裕樹は悔しげな表情を浮かべる
今大会からグラブを新調した。あこがれる巨人・杉内俊哉投手と同じローリングス社製の黒いグラブ。内側に「覇王の色の覇気」と書いた。愛読書の人気漫画「ONE PIECE」の主人公・海賊ルフィが操る、王になる資質を持った者しか使えない奥義の名前だ。「甲子園で野球を楽しめた。大観衆に負けない精神力がついた」
敗れはしたが、記録と鮮烈な記憶を残した。 1回戦・今治西(愛媛)戦で大会記録の22奪三振をマークしてから一躍、今夏の主役となった。「プレッシャーもある。でも歴史に恥じない投球をしたい」と 4試合で計68奪三振。甲子園通算15勝を挙げ「世紀の剛球投手」の異名を取った楠本保(明石中)が32年にマークした 4試合での通算奪三振数(64)も80年ぶりに更新した。 1大会68奪三振は左腕投手としては史上最多となった。球筋が見やすいとされる右打者から37奪三振。この日の 9回、通算で打者 132人目まで、 3ゴロは一つもなかった。引っ張ることすらさせなかった。
光星学院に完封負けし、号泣する桐光学園・松井裕樹(中)と、慰める捕手・宇川
最後までドクターKのすごみを見せつけた。背番号 1は「気力で投げた」と強気の奪三振ショー。圧巻は初回一死 2塁のピンチだ。「三振を取ってみたい」と話していた田村を内角スライダー、北條を内角直球で空振りさせ、 3者連続三振で一気に波に乗った。
「自分はまだまだだと思った。下半身をもう一回つくり直して、もっと力を付けたい」
甲子園に帰って来るチャンスはあと 2回もある。
土は持ち帰らなかった。 147キロ左腕は「これで終わりじゃない。連投できる体力をつけて、どこにも負けないチームを作りたい。甲子園で優勝します」と力強く宣言。来年こそ、日本一。今夏は、球史に残る“覇王”への序章に過ぎない。
▼板東英二氏(徳島商OB・72歳):あれだけのスピードボールに鋭く落ちる球があれば、高校生はちょっと打てない。最近見たピッチャーでは、ずば抜けている。プロでも1巡なら抑えられると思う。つぶさないように(指導者は)大事にゆっくり育ててほしい。
▼桐光学園・野呂雅之監督:(松井について)三振よりもチームの勝利を考えてくれた。いい財産になった。これを糧に、 1回りも二回りも大きくなってほしい。
【選評】光星学院が投手戦を制した。 8回二死 1、 3塁から田村の左前打で均衡を破り、
続く北條の左中間 2塁打で 2点を加えた。金沢はテンポよく、コースを突いて散発の 3安
打完封。桐光学園の松井は 4試合連続 2桁となる毎回の15三振を奪う力投。だが、疲れの
見えた終盤、球威がややなくなりつかまった。打線も迫力不足だった。
毎日35度を超える(天気予報などで言う温度は地表面に対する温度の為、ビルの建ち並ぶ都会の温度よりは 5度~10度ほど低くなっているが、阪神甲子園球場では土のグランドのために、温度差は殆ど発生しない)中で本当に力一杯投げてきたが、暑さも有り連投の為に力果てて負けてしまった桐光学園・松井裕樹投手。
来年は春夏の二大会が有る。どちらにも出られるように頑張って行って欲しいですね。
そういえば、今日の試合も第一試合は関東勢同志,第二試合は関西勢同志の戦いですね。22日の準決勝も第一試合は関東勢同志,第二試合は関西勢同志の戦いとなっています。23日の決勝戦は、関東VS関西という試合になりますね。虎ちゃんは、東京在住の関係で関東勢を応援しています。
【準決勝】
・第 1試合(09:00):第13日第 2試合の勝者 - 大阪桐蔭(大阪)
・第 2試合(11:30):第13日第 1試合の勝者 - 光星学院(青森)
▽光星学院:1956年4月18日設立、青森県八戸市のカトリック系の私立高校。
全校生徒数は約 800人。 同校の美保野キャンパスには、光星学院高等学校専攻科の他に、仙台育英学園高等学校通信制課程の学習拠点「ILC青森」が設置されている。札幌光星高等学校・中学校とは無関係である。
【主な出身プロ野球選手】
・洗平竜也 (33歳) 元プロ野球選手、 中日ドラゴンズ
・根市寛貴 (292歳) 元プロ野球選手、 読売ジャイアンツ - 大阪近鉄バファローズ -
東北楽天ゴールデンイーグルス
・松崎伸吾 (28歳) プロ野球選手、東北楽天ゴールデンイーグルス - 阪神タイガース
・坂本勇人 (23歳) プロ野球選手、読売ジャイアンツ
・下沖勇樹 (20歳) プロ野球選手、福岡ソフトバンクホークス
・川上竜平 (19歳) プロ野球選手、東京ヤクルトスワローズ
▽桐光学園:1978年4月1日設立、神奈川県川崎市麻生区に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校。高等学校では、中学校から入学した内部進学の生徒と高等学校から入学した外部進学生徒が高等学校第2学年から混合してクラスを編成する併設型中高一貫校。運営は学校法人桐光学園。
1990年まで男子校であったが、翌1991年より女子部が設置され男女共学となる。しかし、校舎や教室などが男女で分かれているために、受験専門誌などでは男女別学と記載されることも多い。男子校の真横に、女子校が隣接されているような形態、と考えると理解しやすい。ちなみに男子は女子棟進入禁止だがその逆は教室の都合により許されている。
【主な出身プロ野球選手】
・山室公志郎 (25歳)プロ野球選手、千葉ロッテマリーンズ
※板東英二氏=旧満州国と朝鮮の国境に近い吉林省の図們市で生まれ、終戦後父親の故郷である徳島県板野郡板東町(のちの鳴門市)のかつて板東俘虜収容所であった引き揚げ者用住宅で過ごす。
なお、生年月日は「 4月 5日」としているが、2009年8月22日放送の『ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回』(ニッポン放送)にゲスト出演した際、板東自身「高校 1年生までは 3月31日なんです」と語っている。パーソナリティの和田アキ子に「どっちやねん!」と突っ込まれるが、板東は「(満州から引き上げた時には)もう日本では学校が始まっており、( 3月31日のままだと) 1年ダブった形で入ることになるが、夏の高校野球大会は規定で 4月 1日までが、ちゃんとしておかなければならないことが分かり、裁判所で50円で(=50円を支払って)1週間ずらした」とその経緯を語っている。 4月 1日にせず 4月 5日にした理由は、「いろいろモメたらいかんので、 1週間ぐらい遅らせた方がいいのではないか」としている。当時は、世間的にもこうした誕生日の変更が行われていたという。このエピソードは、自著「赤い手」にも書かれている。
1956年に徳島県立徳島商業高等学校へ入学。当時の練習は非常に厳しく(監督は須本憲一)、流感や台風による休校時も年中無休・23時頃まで行われていたほか、試合前には近くの高校で 300球を投げ、試合直前のブルペンでも 150球を投げていた。後述の延長18回を完投した翌日の再試合も 300球の投げ込みを行ってから登板した。 1年生時に第38回全国高等学校野球選手権大会へ出場するも 1回戦で敗退。1958年の第40回全国高等学校野球選手権大会に出場すると、対秋田市立秋田商業高等学校戦(17奪三振、相手は石戸四六)、対福岡県立八女高等学校戦(15奪三振)で勝利し、準々決勝に進出した。 準々決勝の対富山県立魚津高等学校戦は18回で25個の三振を奪うが、相手の村椿輝雄も譲らず、 0対 0のまま引き分け・翌日再試合となった。魚津高戦の 4ヶ月前に春季四国地区高校野球大会が行われたが、板東は徳島のエースとして、対高知市立高知商業高等学校戦で16回、翌々日の対香川県立高松商業高等学校戦で25回を 1人で投げ抜いた(この時の高松商業・石川陽造も25回を完投)。この事態を重く見た日本高等学校野球連盟はこの年から「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」ことを決定していた。引き分け再試合になった理由について板東は「四国のピッチャーは速球でガンガン来るタイプがほとんどで、魚津高の村椿(輝雄)君のような、打たせて取る軟投派のピッチャーとは対戦が無かったからタイミングが合わず、戸惑ったまま試合をしたから」と発言している。
延長18回を投げきった試合直後の記者会見の場では、集まった記者に対して開口一番「いやぁ~、記者の皆さん、遅くまでどうもお疲れ様でした!」と発言し、記者は板東の驚異的なスタミナに唖然とした。再試合が決定した日の夜、村椿は宿舎に帰ると食事も摂らずに眠ってしまったのに対し(後年、村椿はこれを否定)、板東は宿舎に戻った後、しっかり食事を取って風呂に入った上で寝たという。
準々決勝の再試合も 9奪三振で完投して勝利を収めて、当時の大会記録64奪三振を更新する。準決勝で対作新学院高等学校戦(14奪三振)を制すが、決勝で対山口県立柳井高等学校に敗れた。この大会で記録した83奪三振は高校野球の一大会における通算奪三振の最多記録で、2012年現在も破られていない。
日本で初めて野球帽、球団マスコット、ユニフォームパジャマを考案した。
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負けても凄かった松井 奪三振率は驚異の17.00!板東英二氏「松井ずばぬけている」
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