来る 1月 7日(土)~ 8日(日)の二日間に渡って行われるNPO・東京都ウオーキング協会の例会「第12回 東京十社初詣」への参加を予定しています。
江戸時代に終止符が打たれ明治天皇は、江戸を東京と改め、「明治」と改元され江戸城を皇居と定められて、新しい首都、東京が始まりました。
その眼まぐるしき変革の中に、明治天皇は、東京の鎮護と万民の平安を祈願され、明治元年11月 8日、准勅祭神社(じゅんちょくさいじんじゃ)として東京十社を巡拝する十社巡りが企画され、「東京十社巡りを定め勅使(ちょくし)をして御幣帛(ごへいはく)を捧げ、ご祈願しました。昭和50年、昭和天皇のご即位50年を奉祝して、元准勅祭神社である東京十社を巡拝する十社巡りが企画され、「東京十社巡り」が始まりました。
東京十社は、「王子神社(王子権現)」「氷川神社(氷川明神)」「白山神社」「亀戸天神社(亀戸天満宮)」「根津神社(根津権現)」「富岡八幡宮(深川八幡)」「神田神社(神田明神)」「芝大神宮(芝神明さま)」「日枝神社(山王さま)」「品川神社」の10の神社が指定されています。
※准勅祭社の品川神社を品川貴船社、現在の品川神社を稲荷神社としている例があること等から、この品川神社とは現在の荏原神社であるとする説もある。しかし品川神社第十三代神主小泉帯刀(准勅祭社指定当時の神主)の文書を根拠に現在の「東京十社めぐり」では品川神社説を採用している。それで現在「東京十社めぐり」に荏原神社は入っていないが、両社とも准勅祭社を名乗っている。
毎年正月にNPO・東京都ウオーキング協会では、「王子神社(王子権現)」「白山神社」「根津神社(根津権現)」「神田神社(神田明神)」「亀戸天神社(亀戸天満宮)」の 5社を 1日目として行い、「富岡八幡宮(深川八幡)」「日枝神社(山王さま)」「氷川神社(氷川明神)」「芝大神宮(芝神明さま)」「品川神社」の 5社を 2日目として行う事になっています。
では、各神社の由来や歴史などをNPO・東京都ウオーキング協会の順番にわかりやすく解説しましょう。
では、各神社の由来や歴史などをNPO・東京都ウオーキング協会の順番にわかりやすく解説しましょう。
▼「王子神社(王子権現)」:王子神社は、元亨(げんこう) 2年(1323年)、当時の領主・豊島氏が紀州の熊野権現を勧請(かんじょう)し「若一王子宮」(にゃくいちおうじ)を奉斉しました。このことから「王子」の名称は由来しています。
徳川家康公は後に社領 200石を寄進し将軍家祈願所と定め、歴代の将軍の表敬が厚く、三代家光公は寛永十一年、社殿を造営し、また林羅山に命じて当社縁起「若一王子縁起絵巻」を作らせています。
また、八代吉宗公は紀州出身で、紀州熊野権現の勧請である当社を崇敬し、元文(げんぶん)二年(1738年)に飛鳥山を寄進しました。 曾て社殿は森深く昼なお暗い幽寂地であり、「太田道灌雨宿の椎」をはじめ、勝海舟の練胆話(れんたんばなし)も伝えられています。
桜を多く植えて、庶民遊楽地とし、王子権現の名と飛鳥山の花見は、江戸名所として知られています。
▼「白山神社」:天暦 2年(948年)、加賀の白山神社から勧請(かんじょう)を受けて、武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷1丁目)に創建されました。建武 4年足利尊氏公により国家平安ご祈願所に命ぜられました。
▼「根津神社(根津権現)」:根津神社は大変古く、なんと1900年ほど前に日本武尊が千駄木に創祀したと言われています。文明年間には、太田道灌により社殿が創られましたが、江戸時代になり、現在地に移転し、現存する根津神社の社殿も江戸時代のものです。
「根津権現」の称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が「根津神社」とされたために衰退しましたが、地元ではいまだに「根津権現」を使う人もおり、単に「権現様」とも称されいたり、文学作品では「根津権現」として出てくることがよくあります。
▼「神田神社(神田明神)」:神田神社は天平 2年(730)に出雲氏族で大己貴命(おおなむちのみこと)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。
その後、承平 5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けました。嘉元(かげん)年間(1303年 - 1306年)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶(えんきょう) 2年(1309年)神田神社に奉祀いたしました。
▼「亀戸天神社(亀戸天満宮)」:菅原氏は、古代豪族の土師(はじ)氏の出身で、道真公の曾祖父古人公が土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったのです。
時代は、嵯峨天皇の時代を頂点として、「文章経国」すなわち学問を盛んにして国をつくるという方針のもと、唐風の文化の最盛期を迎えていました。
道真公は清公公、是善公と続く文章博士の家系に生まれました。母は、少納言伴(大伴)氏の出身です。
道真公わずか5歳で和歌を詠み、周りを驚かせました。「美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」和歌にある「あこ」とは自分のことで、菅公は幼名を阿呼(あこ)といわれてました。10歳を過ぎて漢詩を創作し、神童と称されました。18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳でついに方略式に合格し、30歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、33歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けました。
「亀戸天神社(亀戸天満宮)」には、道真公 5歳の像が祀られています。
ここまでが、 1日目として行われる順番です。虎ちゃんは、集合,スタート場所になっている「王子神社(王子権現)」から「白山神社」へ向かう途中での安全誘導を担当する予定になっています。
▼「富岡八幡宮(深川八幡)」:正式名称は「成田山 東京別院 深川不動堂」と言い、成田山新勝寺の東京別院となります。 通称は「深川不動尊」と呼ばれています。
江戸時代のはじめ、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まりました。 これを受けて、元禄16年(1703年)、 1回目の成田不動の「出開帳」が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれました。これが深川不動堂の始まりなのです。
富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として有名で、貞享元年(1684年)幕府より春と秋の 2場所の勧進相撲が許され、富岡八幡宮の境内で行われたのです。以降約 100年間にわたって本場所が境内にておこなわれ、その間に定期興行制や番付制が確立されました。
▼「日枝神社(山王さま)」:江戸山王の始原は古く、鎌倉初期秩父重継が江戸貫主を名乗り、館に山王社を勧請し、文明十年(1478年)太田道灌が川越山王社を勧請し、城内鎮守神と尊崇し江戸の町の繁栄の礎を築きました。さらに徳川家康江戸入府に際し将軍家の産土神を崇め、社殿を造営し、神領を寄進(六百石)、その祭礼・山王祭は、天下祭、御用祭とも称され、日本三大祭りの一つとされました。
明治元年(1868年)11月の東京奠都の際に准勅祭社に指定され、その後、皇城鎮護の神社とされて大正元年(1912年)には官幣大社に昇格しました。昭和20年(1945年)の東京大空襲で社殿が焼失しましたが、昭和33年(1958年)に再建されました。
「山王鳥居」は鳥居の笠木の部分の上端に合掌のように破風を付したもので、合掌鳥居ともいわれています。「山王鳥居」は、大山咋神を祀ったお社に用いられる特徴的な鳥居であり、日枝神社や日吉大社などに見ることができます。
▼「氷川神社(氷川明神)」:天暦五年( 951年)赤坂一ツ木に創祀以来、江戸幕府の尊信あつく、紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神(うぶすながみ)の由縁によって享保14年(1729年)吉宗公八代将軍職を継ぐに至り、赤坂今井台に神徳を謝し現社殿を造営、八代より十四代家茂公まで歴代の直拝朱印状が納められています。
氷川神社の境内には、大きな古い銀杏の木が 2本あります。これは東京都港区指定文化財で天然記念物の「氷川神社のイチョウ」です。
目通り(地上 1.5メートルの高さ)の幹径約 2.4メートル。幹周約 7.5メートルを測る推定樹齢 400年の巨樹です。
氷川神社の記録をはじめ記載された資料はありませんが、神社が現在の地に建立された享保15年(1730)には、すでに 100年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられます。
イチョウは、生きた化石とも言われ、一億五千万年前には地球上のいたるところで生い茂っていました。氷河期に絶滅しかけましたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたと言われています。落葉性の大木で成長もはやく、高さ30メートルにも成長します。雌雄異株であり、この木は雄株であります。港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺の「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木です。
▼「芝大神宮(芝神明さま)」:芝大神宮は、東京都港区芝大門に鎮座する神社です。旧称芝神明宮飯倉神明宮、通称「関東のお伊勢様」として数多くの人々の崇敬を戴きました。
明治元年11月 8日(1868年12月21日)より准勅祭社。明治 3年 9月 1日(1870年 9月25日)准勅祭社制度の廃止に伴い、東京府社となりました。
【主祭神】天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)--伊勢神宮内宮の主祭神。
豊受大神 ---伊勢神宮外宮の主祭神。東京都内では珍しく同御祭神のお札も授与している。
【相 殿】源頼朝公、徳川家康公
・天照皇大御神(あまてらすおおみかみ):太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)のひとつとされる。『古事記』においては天照大御神、『日本書紀』においては天照大神と表記される。
『日本書紀』においては複数の神名が記載されているのに対し、『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されている。
▼「品川神社」:後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理咩乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、今は社名を品川神社と改めました。
ここまでが、 2日目として行われる順番です。虎ちゃんは、昨年「氷川神社(氷川明神)」での安全誘導を担当しましたので今年も同じ所では?と思っています。
今回の場合大会の為フリー・ウォークになっていて、 1日目のゴールになっている「亀戸天神社(亀戸天満宮)」及び 2日目のゴールになっている「品川神社」に、最終15:00迄にゴールをして貰う予定になっています。 2日目には、アンカーがゴールした後反省会を行い解散となりますが、毎年一部を除いて全役員が出席すると言う事で、京浜急行新馬場駅付近でお茶の一杯が恒例となっています。
アンカーが通過後にはフリーに行動できるので、 1日目のお昼は「神田神社(神田明神)」から「亀戸」の間で食べるとして、 2日目のお昼は品川駅のガード下にある「品達」で済まそうかと思っています。さらに終了後は、一人で最後の神社「磐井神社」が完全に地元となる「東海七福神巡り」をして帰ろうかとも思っています。
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