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Channel: 阪神ファンの障碍(害)者アスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記
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下町八社福参りに参加します…(2)

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 下町八社福参りに参加します…(1)からの続きです。ここからは、日本橋付近から佃島方面を紹介します。

阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-日本橋七福神めぐり
阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-日本橋七福神めぐり
 日本橋七福神めぐりのコースマップです。

▼小網神社:武蔵国豊島郡入江のあたりに万福庵という観世音と弁財天とを安置する庵がありました。この庵は恵心僧都の開基で、観世音と弁財天も僧都の作と伝えられています。開基の年代は明らかではありませんが、恵心僧都の歴史を考えれば、今からおよそ一千年前ということになります。
 文正元年(1466年)、庵の周辺で悪疫が流行し、人々は困り果てていました。そんななか、網師の翁が海上で網にかかった稲穂を持って庵を訪れ、数日間をこの庵で過ごしました。ある夜、庵の開基・恵心僧都が当時の庵主の夢枕にたち、網師の翁を稲荷大神と崇めれば、村の悪疫は消滅することを告げます。夜が明け、網師翁の姿は庵にはありませんでしたが、庵主は恵心僧都の託宣を村人たちに告げ、翁を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して日夜祈願をつづけました。すると間もなく村の悪疫は鎮まり、村人たちは歓喜したといわれています。
 領主・太田持資公I(道灌)も、この御神徳を聞き、折に触れて、当神社を詣でました。そして土地を寄附し、小網山稲荷院万福寿寺と名づけたと伝えられています。慶長年間(西暦1596~1615年)には、これらにちなみ周辺地域が小網町と名づけられ、当神社を氏神と崇めました。
 明治維新後の神仏分離令によって社寺は分離、小網稲荷神社として明治 6年 7月 5日、村社に指定されました。現社殿・神楽殿は、大正期の明治神宮造営の工匠長・内藤駒三郎宮大工一門により、昭和 4年に造営されました。その後の戦禍を免れ、現在は日本橋地区に残されている唯一の木造檜造りの神社建築となっています。特に、向拝に施された「昇り龍」と「降り龍」の彫刻は見事なもので、「強運厄除の龍」として拝されています。戦後の宗教法人化に伴い、名称は「小網神社」となりました。社殿・神楽 殿などは現在、中央区の文化財に登録されています。
 「日本橋七福神」のひとつ、「福禄寿」と「弁財天」をお祀りしています。

▼水天宮:現在の都営大江戸線赤羽根橋駅からまもなく、三田小山町辺の済生会中央病院、都立三田高校の辺りが、明治維新まで久留米藩有馬家二十一万石の上屋敷でありました。藩主が江戸詰めの間、代々、江戸城にも近いこの上屋敷に滞在していました。この屋敷の名物にはいくつかありますが、その第一が文政 1年(1818)年、第九代頼徳(よりのり)公により久留米から分霊した水天宮であります。
 江戸っ子たちの間で篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が後を絶たず、ついに毎月五の日には参拝を願う江戸庶民のため門戸を開放しました。それが「どうでありまの水天宮」とうたわれ、安産の願いを叶えてくれるという評判で、有馬家と「情け深い」ことを掛けて「情けありまの水天宮」との洒落た言い習わしが広まり、「恐れ入谷の鬼子母神」と共に江戸の二大流行語となりました。
 芝 赤羽橋之図(安藤広重)もうひとつの名物は、八代藩主頼貴(よりたか)公の時に幕府より大名火消を命ぜられて、三田台地に高さ三丈の火の見櫓を組んだことです。他家のものは二丈五尺以内であったため、有馬家の火の見櫓は日本一と称され江戸中から見えたといわれます。
 そもそもの「水天」は仏教に取り入れられる前は、もともとは古代のイラン・インドのヴァルナという最高神であり、バラモン教の聖典「ヴェーダ」の神話にも登場し、ゾロアスター教ではこの神をアフラマズダとして称える。神仏分離以後は、ヴァルナ神は記紀神話でいえば天御中主神にあたると解釈された。

 ここら辺は、通称:日本橋界隈と言われる地域です。この後、隅田川界隈から佃島へ向かいます。

▼隅田川テラス:隅田川両岸に沿って整備された親水テラスの総称である。治水上の高水敷にあたる部分をテラス化したもので、舗装や緑化が施されることによって平時には憩いの場、散策路など、公園としての役割が与えられている。

▼中央大橋:隅田川にかかる橋で、東京都道463号上野月島線中央大橋支線(八重洲通り)を通す。西岸は中央区新川二丁目、東岸は中央区佃一丁目。隅田川の数ある橋の中で最も新しい橋だったが、平成18年 2月に千住汐入大橋完成によりその地位を明け渡すこととなった。時節柄、機能やコスト一辺倒であった昭和の橋とは違い、都市景観やデザインに気遣いをもたせてある。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされ美しい。バブル絶頂期ということもあり、分不相応なほどの贅沢な造りではあるが、まさに中央区のシンボルとしての「中央大橋」の名に恥じないものである。

▼住吉神社:東京都中央区佃にある神社である。旧社格は郷社。祭神は住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命I(あずまてるみおやのみこと、徳川家康)である。
 天正年間(1580年代)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の役の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。江戸時代になると、佃村の漁民は毎年11月より翌年 3月まで江戸に赴き、将軍家に白魚を献上するようになったが、やがて漁民は江戸との往復が大変だとして、江戸在住を願い出る。天正18年 8月 1日(1590年8月30日)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保 3年 6月29日(1646年 8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神O)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。
 近所には、佃煮で有名な「天安」が有る。少々高級感が有るが、少量からでも販売をしてくれる(ネット販売も有るらしい)ので一度は買ってみると良いだろう。


▼佃公園:隅田川沿いにある公園。背景には高層ビル群がそびえ、川沿いには白い和風の建物が目に入る。その建物は石川島灯台の復元である。石川島灯台は、慶応 2年(1866年)、石川島人足寄場奉行が隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので、六角二層の堂々たる灯台であった。
 公園にある東屋では老人がしばしの休憩を取っている。穏やかなスロータイムの一時が流れている。
 佃島は、徳川家康の命を受けて、摂津国佃村(現大阪市西淀川区)から移り住んだ漁師達よって開かれたところで、辺りを散策すると佃煮屋が並び、昔ながらの狭い路地は郷愁を感じさせる。

 これらの神社等を廻ることになっています。12月のNPO・東京都ウオーキング協会「日比谷ウォーキング教室」で廻った所、 1月 2日に行われたNPO・東京都ウオーキング協会例会「江戸・東京七福神めぐり」の「浅草名所七福神巡り」で廻った所等を結んだような形で回るコースになっています。その為、リンクを一部だけにしました。










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