今日は以前ブログに書いたように、NPO・東京都ウオーキング協会の「下町八社福参り」に参加でしたが、一昨日風邪を引いてしまった様で昨日も熱が37度を超える状態でした。
昨日の場合、NPO・東京都ウオーキング協会の大会(フリーウォーク)「第12回 東京十社初詣 2日目」と言う事も有り、大会のために休むに休めないと思い参加して来ました。担当配置場所は、「赤坂 氷川神社」でした。身体を冷やさないように、できるだけお日様と追いかけっこをして、安全誘導をしながらアンカーが来るのをまちました。協会の小旗を神社境内に持ち込むのはいけないことなので、神社の外での誘導となりました。通過時間は、10:20頃でした。アンカーが来たのは、それからちょうど 1時間後の11:20頃でした。要するに、虎ちゃんが到着してから 2時間程度で終了した事になります。最初に通過したのは、時速6.5km/h程度でウォーキングをする団体でした。
家に帰ると、起きているのがやっとという感じになり、 2時間程度寝てしまいました。殆どタバコを吸わない虎ちゃんですが、この日だけは本当にマズイと思っていました。
その為、今日の例会(団体歩行)の担当責任者(コースリーダー)になっている役員に「コンディションが悪く一日休みたいので、参加する事にしてあったけれど欠席したい」旨を昨日集合した段階で伝えた次第なのです。
今朝起きたら、夕べは薬を飲んで寝たせいか多少はコンディションが戻って来ていました。
虎ちゃんがいた赤坂 氷川神社は、由緒・沿革によると、「創立の起源は、古い書物によると、天歴 5年(村上天皇 951年)武州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られました。これよりおよそ百年後の治歴 2年(後冷泉天皇 1056年)、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。
江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元年(1716年)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730年) 4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝がありました。以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(※港区文化財)を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。」
また、『江戸名所記』によると―
「むかし人王62代村上天皇の御宇天暦年中に近江国甲賀の郡に蓮林僧正として天台四明の法灯をか
かげて一念三千の観行をこらす上人あり、東国修行のついでこの所に一夜をあかしける、その夜の夢
にいづくともしらず老翁 1人来りていわく、我はこの土中にうづもれて久しく年をつもれるものなり、
いそぎ掘出して安置せしめばこの所の守護神となるべし、その埋もれし所には奇瑞あるべしと見て夢
はさめにけり。
上人奇異のおもひをなしそのあたりをめぐるに一所の壇上に金色の光りあり、いそぎほりてみれば
十一面観音の形像おわします。やがてそのところに社をたてて安置せしめらる、一木村の観音と名づ
けて諸人まいりつどう。きわめて利やくおおし。
蓮林遷化の後治暦 2年ひのえ午にあたって関八州のうち夏より秋にいたり大にひでりす。万民うれ
えをいたしけるに、当所の土民このやしろに雨をいのるに、たちまちに洪雨ふりくだって五こくゆた
かにみのり民よろこびのまゆをひらきけり、これ雨をくだして川をなし万民をたすけ賜る、故にすな
わち神とあがめ、氷川の明神と名付けたてまつる。神事は 6月15日や、今に及びなおこの神徳たかく
おわしまして諸人の願望をかなえ賜うぞ有がたき。」
元々今日は、午後から会社に顔を出す予定にもなっていたので、暖かくなったら行って来ようかと思っています。せっかく会社に行くなら、先日から考えていてある程度通過した「ウォーキングの計画用の地図を作成して来ようかな?」とも思っています。虎ちゃんの頭の中では、既に地図はできていますので、それを表すだけですから簡単な地図作りになります。
とにかく、今日はある程度までゆっくりと身体を休めてからの行動になります。
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今日は、「下町八社福参り」に参加でしたが…
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