「江戸川の菜の花と新選組や小林一茶ゆかりの地、流山散策」に行ってきて…(1)からの続きです。
ここでは、「新選組流山本陣跡」から「閻魔堂」,チェックポイントになっている「(万華鏡ギャラリー寺田園茶舗見世蔵」迄を一部過去の写真を入れながら紹介します。
古式大砲です。この大砲で敵(官軍)と戦ったのでしょうね。「新選組流山本陣跡」近くに置いて有りました。
「新選組流山本陣跡」の有る酒屋さん「長岡屋」には、この様に「新選組」関係品が置いて有りました。
こちらが、「新選組流山本陣跡」です。この日は「近藤勇忌」が行われる日だったので、本陣前にそれに参加する人達が集まっていました。
「新選組流山本陣跡」とは、近藤勇(大久保大和をなのっていた)が最後に陣営を敷き、自首をした地です。陣営は常与寺の裏手で現在では酒屋となっていますが、当時は長岡屋という酒造家でした。官軍は羽口の渡しを渡ってこれを包囲しましたが、流山を兵火に巻き込むことを憂い、自首を決めました。慶応 4年(1868) 4月 3日のことです。当時使われたと言い伝えられる土蔵が往時を偲ばせてくれます。
「新選組流山本陣跡」の側に「閻魔堂」が有りました。ここは「金子市之丞 三千歳墓所」となっていました。
祠に入っているのが「金子市之丞の墓」で、その側に有るのが「遊女 三千歳(みちとせ)の墓」です。
金子市之丞 三千歳とは、江戸時代、安政 4年(1857)に初演され一斉をした歌舞伎『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんかた)。主人公は、ご存じねずみ小僧次郎吉(1795~1832)。
町火消しの鳶人足(とびにんそく)から義賊(ぎぞく)へと身を転じ、江戸市中の大名屋敷を荒らしては金を盗み、酒色とに使い果たして斬首となった大泥棒である。のちに、歌舞伎や講談で盗んだ金を貧民に分け与えた(義賊)として脚色されたことから、多くの観客の心をとらえ、一躍有名となった。
その少し前の時代、東葛飾の地にも、同じように義賊と呼ばれた一人の男がいた。
明和 6年(1769)流山の酒造家金子屋の一人息子として生まれた、金子市之丞である。幼くして父を亡し、母との貧しい生活に耐えかねて、任侠の世界へ。あげくの果てに盗賊にまで身を落とした市之丞だが、盗みに入るのは金持ちの屋敷ばかり。盗んだ金を貧しい家にばらまいて歩き、天明の大飢饉の折りにはその金で飢えた人々を救ったという。そんな市之丞を、地元の人々はいつしか(ビン小僧の金市(かねいち))と呼ぶようになった。ところが、やがて金市は捕らえられ、処刑されてしまう。
金市を慕う人々はその亡骸(なきがら)をこっそり引き取り、彼の義行を偲んでふるさと流山の墓地に手厚く葬ったということである。
武流山電鉄流山駅から県道を越え、近藤勇の陣屋跡を通り過ぎると、閻魔堂(えんまどう)と書かれた大きな看板が目に写る。
入り口を入るとすぐ、右手に焔魔堂が。中には、 220年以上も前に造られたという閻魔さまの半座像が鎮座している。
境内には36軒の先祖代々の墓が並び、最も古いものは元禄時代にまでさかのぼると、墓地を管理している寺田屋のご主人、栄一さんが教えてくれた。
その焔魔堂の正面に、金子市之丞の墓が建っていた。右側には、金市と恋仲だったといわれる遊女 三千歳(みちとせ)の墓がある。こちらは、離れていてはさびしかろうと、明治に入ってから地元の人々によって建てられたもので、金市の墓に寄り添うようにたたずんでいる。
さて、本当のところ、金市が義賊であったかどうかは定かでない。が、
ねずみ小僧次郎吉(1795~1832)同様、「義賊・金市」を題材に江戸の終わりから明治にかけて講談『天保六花撰』、歌舞伎『天衣粉上野初花』(こもにまごううえのはつはな)などが創作、上演され、大好評を得たと地元では語り継がれている。
先ほど「新選組流山本陣跡」に集結していた新選組隊の出発です。
チェックポイントになっている「(万華鏡ギャラリー寺田園茶舗見世蔵」前の土手を行く新選組隊です。本当なら、同じ様に土手の上を行く事になっていました。
この後、 「村社 赤城神社」,「村社 赤城神社別当祈願所 光明院」,「一茶双樹記念館」,「寶泉山長流寺(廣濟院)」と廻って、JR南流山駅に向かいましたが、それは「江戸川の菜の花と新選組や小林一茶ゆかりの地、流山散策」に行ってきて…(3)で紹介します。
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「江戸川の菜の花と新選組や小林一茶ゆかりの地、流山散策」に行ってきて…(2)
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