5月 5日(土)に行われた、NPO・東京都ウオーキング協会のミニウォーク「鎌倉駅西口会話の歴史に触れる」に参加してきました。
この日は、ゴールデンウィークが毎日の様に雨降りの中でやっと晴れた日でした。
参加者は、約90名(役員:約10名,ウォーカー(以下参加者):約80名)と言う人数で行われました。
こちらが、コースマップ関係です。
鎌倉駅に向かう途中で電話がなり、「駅の改札を出ないでください」というものでした。駅に着いてトイレに行くと、担当責任者がそこに配いて配置は駅担当の後旗手をして欲しいというものでした。
この日は、ゴールデンウィークの最中という事も有り、9:30頃からは「JR横須賀線鎌倉駅」に下車する人達の波に飲み込まれる様な形になり、やむなく改札近くの隅で協会の小旗を小さくして立っていました。
参加するために来たご夫婦に、「集合場所はこちらでは無いのですか?」と聞かれたので、即反「対側になります」とご案内しました。
旗手のために、10時ギリギリまでそこで待ち時間になった所で即刻反対側の改札口(西口)に大急ぎで移動しましたが、出発時間になっても西口で駅案内をしていた先輩役員が来ないので、出発時間が少々遅れてしまう事になりました。
出発してから最初に向かったのは、「寿福寺(正式名称=寿福金剛禅寺)」というお寺でした。
「寿福寺」の山門(総門)です。
山門を越えて更に進むと、更に山門(中門)がありました。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は「北条政子」、開山(初代住職)は「栄西である。鎌倉三十三観音霊場第24番。鎌倉二十四地蔵第18番。境内は「寿福寺境内」として1966年(昭和41年) 3月22日、国の史跡に指定された。
総門、中門、仏殿、庫裏(くり)、鐘楼などが建つ。仏殿は1664年(寛文4年)の再建である。
境内裏手の墓地には、「陸奥宗光」、「高浜虚子」、「大佛次郎」などの墓があり、さらにその奥のやぐら(鎌倉地方特有の横穴式墓所)には、「北条政子」と「源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。
なお、総門から中門までの参道と裏山の墓地は公開されているが、中門から内側の境内は一般公開さ
れていない。
役員で、配置が決まっていない人は全員前に出なければいけないのですが、誰も前に出てきてくれて
いなかったので虎ちゃんが結局「北条政子」と「源実朝」の墓の紹介をしなければならなくなり、参加してくれた人達と同じ様に「高浜虚子」、「大佛次郎」などの墓を見ることはできませんでした。
今度は時間を見て個人で行ってきたいと思っています。
ご本尊の如来像です。遠くから撮ったので巧く撮れませんでしたが、角度によってはお顔を拝見する事ができます。
こちらが、「北条政子」と「源実朝」の墓(やぐら)です。
参加者の中には、「源実朝」も最後は防空壕の中に入ったのか」と言っている人もいました。
こちらも「北条政子」の墓となっていました。いったい幾つあるのでしょうね?
「北条政子」の墓は、両方とも花が添えられていました。(ここでも女性上位?昔は男尊女卑で今は…)
お墓の側には、五輪塔が建っていました。
続いて向かったのは、「海蔵寺」でしたが、途中に「十六夜日記」の著者、「藤原為家」の側室「阿仏尼(あぶつに)」の墓が有りました。
こちらが、「阿仏尼(あぶつに)」」の墓です。
阿仏尼(貞応元年(1222年)? - 弘安6年4月8日(1283年5月6日))は鎌倉時代中期の女流歌人。女房名は安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)。実父母は不明。武士である平度繁(たいらののりしげ)の養女となる(ただし平度繁の養女ではなく実の娘であるとする見解もある)
30歳ごろ、「藤原為家(ためいえ)」の側室となり、「冷泉為相(ためすけ)」らを生む。
「藤原為家」の没後、播磨国細川荘の相続をめぐり、正妻の子「二条為氏」と争い、弘安 2年(1279)幕府に訴えるため鎌倉へ赴いた。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが「十六夜日記」である。
訴訟の結果が分かる前に鎌倉で客死したという説と、帰京後に没したとの説があるが前者が有力である。(もしも後者が正解だったら、この墓はだれの墓なのでしょうね?)
「弘安百首」などに参加し、関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などもある。「続古今和歌集」以降の勅撰和歌集に入集。歌論書に「夜の鶴」がある。また「うたたね」は若き日の失恋放浪の顛末(てんまつ)を記した日記である。
もう少しで「海蔵寺」に到着しますが、ミニウォーク「鎌倉駅西口会話の歴史に触れる」に参加してきました(2)へ続きます。
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ミニウォーク「鎌倉駅西口会話の歴史に触れる」に参加してきました(1)
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