●デーブ・ヒルトン氏(元プロ野球ヤクルト、阪神内野手)米アリゾナ州の地元紙アリゾナ・リパブリック(電子版)によると、17日に死去、67歳。死因は不明。1971年に米大リーグのドラフト全体「1位」でパドレス入り。1978年にヤクルトに入団し、当時プロ野球タイ記録のシーズン「8」本の初回先頭打者本塁打を放って「打率3割1分7厘、19本塁打、76打点」で日本一に貢献した。1979年も「19本塁打」を放ち、1980年には阪神でプレーした。ヤクルトファンとして知られる作家村上春樹さんはエッセー集「職業としての小説家」の中で、小説を書こうと思い立ったのは1978年 4月の明治神宮球場でのセ・リーグ開幕戦でヒルトンが 2塁打を打った瞬間だったと述べている。1978年に、米アリゾナ州ユマで春季キャンプを張っていたヤクルトの入団テストを受けて合格。「打率0.317、9本塁打、76打点」をマークし、当時プロ野球タイ記録のシーズン「8」本の初回先頭打者本塁打を放つなど、球団初のリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでも「1勝2敗」で迎えた第 4戦の 9回に「逆転2ラン」を放ってシリーズの流れを変え、日本一にも貢献した。1979年は成績が低迷し、同年オフに自由契約となったが、阪神のブレイザー監督が1980春、米アリゾナ州テンピでのキャンプ中に獲得を決定。同年に早稲田大學から入団した岡田彰布氏とポジションを争うことになった中、開幕からブレイザー監督はヒルトン氏を重用した。しかし、ドラフト会議で 6球団が競合した末に獲得した地元大阪出身のスター候補生を冷遇することへのファンやマスコミの反発はすさまじく、ヒルトン氏が打席に立つたびに「オカダコール」を浴びせられる事態となり、同氏の成績は低迷。18試合の出場で打率 0.197の成績となったところで、退団。ブレイザー監督も解任された。帰国後はパイレーツ傘下の「3A」でプレーしたが、メジャー復帰はかなわず、1982年に引退後は、台湾球界でコーチや監督を務めるなどした。
●リーグ優勝を逃した金本知憲監督(49)が19日、甲子園での全体練習前に円陣を組んで、ナインに熱く檄を飛ばした。下克上を成し遂げ、1985年以来、32年ぶりの日本一へ。主将の福留孝介外野手(40)を名指しするなど、闘魂注入でチームの士気を高めた。練習日では、異例の光景だった。全員集合-。柔らかい日差しが降り注ぐ午前10時50分。開始10分前に、金本監督が招集をかけた。甲子園の 2塁の定位置後方。わずか数十秒の訓示だったが、緊張感が走った。前日18日に直接対決の末、広島に敗れ、胴上げをみせつけられた。悔しい…。その思いを大事にしてほしいと願いつつ、緊張の糸が切れることだけはしたくなかった。檄の最後には福留を名指し。40歳の主将は鋭い返事で応えた。20日は「3位」DeNAを「0.5」差で追う「4位」巨人との伝統の一戦。甲子園では10日のDeNA戦以来、 4戦勝ちなし(2敗2分け)だ。CSで対決する可能性がある宿敵を倒し、下克上へ再スタートする。
●糸井嘉男外野手(36)が19日、20日の巨人戦(甲子園)に備えて、本拠地で全体練習に参加。前日に広島に敗れ、優勝が消滅してから一夜。再スタートの日に「ジャンヌ・ダルク」と 3度、連呼した。言葉の真意は明かさなかったが、歴史的人物と同様、先頭に立って戦う覚悟…と言いたいはずだ!ベンチ裏から選手ロッカーへ通じる通路。スタッフが、待ち構える報道陣にやんわり“取材自粛”を伝えた直後だった。「ジャンヌ・ダルク」謎の言葉が聞こえてきた。声の主は間違いなく糸井。予期せぬ仰天フレーズに呆然とする記者など眼中にないかのように再び…さらに歩を進めて、ダメ押しのもうひと声…歴史上のあの超有名人のことなのか。 3度、繰り返し、その後、糸井は報道陣の前に戻ってくることはなかった。どういう意味?そりゃ、誰もが思う。でも、こんなの本人しか分かるはずがない。不思議な世界に棲む男だ。突然、と叫んだかと思えば、「賄賂」と言いながら5000円札を出して記者の質問を封じようとする。糸井ワールドは誰も説明などできないのだから。再スタートの日だった。練習前には甲子園の外野で円陣が。金本監督の檄に、背番号「7」も耳を傾けていた。いきなりロングティーを志願。不振から脱出する時も、好調を維持する時も、一番頼りにしてきた練習方法で、ターゲットをCSに定めたのだろう。打ちまくって、俺が引っ張る-。今は劣勢だが、必ず逆転する-。そんな思いを込めて。強敵カープを倒す。奇跡の逆転日本一ロードの扉が今、糸井によって開かれる!?
●20日の巨人戦(甲子園)に先発する秋山拓巳投手(26)が19日、甲子園で調整。ニュースタイルでのライバル封じを宣言した。今季、巨人戦は過去 3試合で「1勝1敗、防御率1.35」。ただ、これまで同様の投球ではなく、CSで再び相まみえる可能性があるだけに、今までとひと味違う“ニュー秋山”を見せることも、重要と考えている。さらに過去 3度はすべてエースの菅野との投げ合い。数字上では「1勝1敗」だが、前回14日はリードの展開でマウンドを降りた。実質的には「2勝1敗」だ。それでも、挑戦者として向かっていく。CSでも投げ合うことも。喜びを感じながら、「13勝」目を目指す。
●坂本誠志郎捕手(23)が19日、甲子園での練習中に左脇腹を痛めた。金本知憲監督は抹消する可能性が高いことを説明。 8月下旬から18試合連続でスタメンマスクを任されていた 2年目に、まさかのアクシデントだ。端正な顔だちがゆがむ。首脳陣も眉根を寄せる。トレーナーを引き連れながら、坂本がクラブハウスへと戻った。まじか。ペナントレースの勝負どころで緊急事態だ。ティー打撃中に痛みに襲われた坂本に対し、金本監督が厳しい表情で見通しを語った。矢野燿大作戦兼バッテリーコーチ(48)も「明日どうこうは厳しいんじゃないかな。脇腹は厳しい。普通には歩いてはいたけど、違和感が強いということでしょう」と話した。球団関係者によると、病院での診察の都合により、この日の抹消はなかったものの、このまま戦線離脱となる可能性が高い。最近18試合連続でスタメンマスクをかぶっていただけに、ここから「2位」確保、CS突破を目指していくチームにとっては、痛すぎる。記事をまとめてみました。
ヤクルト時代のデーブ・ヒルトン氏(1978年10月18日撮影)
【ロサンゼルス(米カリフォルニア州) 18日(日本時間19日)】
デーブ・ヒルトン氏(元プロ野球ヤクルト、阪神内野手)米アリゾナ州の地元紙アリゾナ・リパブリック(電子版)によると、17日に死去、67歳。死因は不明。
1971年に米大リーグのドラフト全体「1位」でパドレス入り。1978年にヤクルトに入団し、当時プロ野球タイ記録のシーズン「8」本の初回先頭打者本塁打を放って「打率3割1分7厘、19本塁打、76打点」で日本一に貢献した。1979年も「19本塁打」を放ち、1980年には阪神でプレーした。ヤクルトファンとして知られる作家村上春樹さんはエッセー集「職業としての小説家」の中で、小説を書こうと思い立ったのは1978年 4月の神宮球場でのセ・リーグ開幕戦でヒルトンが 2塁打を打った瞬間だったと述べている。
1980年 4月20日の巨人戦で、 5回に西本聖投手から中前打を放ったデーブ・ヒルトン氏。阪神では目立った活躍はできなかった=後楽園球場
米大リーグのパドレスや、プロ野球ヤクルト、阪神でプレーしたデーブ・ヒルトン氏が17日に亡くなったと、同氏が住むアリゾナ州の地元紙アリゾナ・リパブリック(電子版)が報じた。67歳だった。死因は明らかになっていない。
ヒルトン氏は、1971年にドラフト全体「1位」でパドレス入りしたが、メジャーでは実働 4年間で通算「161試合」の出場に終わるなど目立った成績を残せなかった。
1978年に、米アリゾナ州ユマで春季キャンプを張っていたヤクルトの入団テストを受けて合格。「打率0.317、19本塁打、76打点」をマークし、当時プロ野球タイ記録のシーズン「8」本の初回先頭打者本塁打を放つなど、球団初のリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでも「1勝2敗」で迎えた第 4戦の 9回に「逆転2ラン」を放ってシリーズの流れを変え、日本一にも貢献した。
1980年 3月25日の近鉄とのオープン戦で、飛球を追って交錯する岡田彰布氏(右)とデーブ・ヒルトン氏=阪神甲子園球場
1979年は成績が低迷し、同年オフに自由契約となったが、阪神のブレイザー監督が1980春、米アリゾナ州テンピでのキャンプ中に獲得を決定。同年に早大から入団した岡田彰布とポジションを争うことになった中、開幕からブレイザー監督はヒルトン氏を重用した。
ブレイザー監督はヒルトン氏の獲得と起用について、「外野は佐野、ラインバック、竹ノ内、新人の北村とそろっていた。さらに、内野(の控え)に岡田が加われば、( 2塁手だった)加藤博も外野に回る。いますぐ補強すべきポジションが内野なのは明らかだ。そして岡田とヒルトンを比べれば、ヒルトンの方が実績がある。メジャーでは、新人はマイナーで経験を積ませてから使うものだ」と説明した。
しかし、ドラフト会議で 6球団が競合した末に獲得した地元大阪出身のスター候補生を冷遇することへのファンやマスコミの反発はすさまじく、ヒルトン氏が打席に立つたびに「オカダコール」を浴びせられる事態となり、同氏の成績は低迷。18試合の出場で打率 0.197の成績となったところで、退団。ブレイザー監督も解任された。
帰国後はパイレーツ傘下の「3A」でプレーしたが、メジャー復帰はかなわず、1982年に引退後は、台湾球界でコーチや監督を務めるなどした。
ヤクルト時代のデーブ・ヒルトン氏
☆ヤクルト在籍時の監督だった広岡達朗氏
「一番印象に残っているのは、遊撃手で使ったときのこと。本職は二塁手だったが、当時、チームに遊撃手がいなくて使った。後で『下手くそやなあ』と言ったら、『やれといったからやったんだ』と言われた。日本人なら『自分は二塁しかできない』などと言いそうなところ、文句一つ言わずにやってくれた。その一生懸命さが、すべて結果につながった。テストで採用した78年のアリゾナキャンプでも、ご飯にしょうゆをかけて食べていた。『おいしい、おいしい』という姿にびっくりした。そうしたハングリーさが他の選手にも影響を与え、チームの好結果にもつながったと思う」
★1980年の阪神
ブレイザー監督 2年目。 6球団競合の末に入団した岡田彰布が目玉だったが、指揮官は時間をかけて育成する方針を打ち出し、ヤクルトから獲得したヒルトンを起用。岡田を外野にコンバートした。これがファンの怒りを買い、開幕後はヒルトンおよびチームの成績不振もあってブレイザー監督は 5月15日に辞任。中西太打撃コーチが後任を務めた。岡田は中西監督の下で内野で先発出場し、「打率・290、18本塁打」で新人王に。チームは夏以降に後退し、「5位(54勝66敗10分け)」でシーズンを終えた。
デーブ・ヒルトン氏
◇デーブ・ヒルトン(Dave Hilton)
元内野手。1950年 9月15日生まれ、米テキサス州出身。ライス大學から1971年ドラフト全体「1位」でパドレスに入団。1978年にヤクルトへ移籍し、当時プロ野球タイ記録のシーズン8本の初回先頭打者本塁打を放つなど、「打率0.317、19本塁打、76打点」で日本一に貢献し、ベストナインを受賞した。1980年には阪神に移籍した。NPB通算成績は「251試合、打率0.284、38本塁打、128打点」。右投げ右打ち。 1メートル85、86キロ(現役当時)。
練習前、円陣を組む阪神ナイン。金本知憲監督自ら、檄を飛ばした=阪神甲子園球場
さぁ、再出発-。リーグ優勝を逃した金本知憲監督が19日、甲子園での全体練習前に円陣を組んで、ナインに熱く檄を飛ばした。下克上を成し遂げ、1985年以来、32年ぶりの日本一へ。主将の福留孝介外野手を名指しするなど、闘魂注入でチームの士気を高めた。
練習日では、異例の光景だった。全員集合-。柔らかい日差しが降り注ぐ午前10時50分。開始10分前に、金本監督が招集をかけた。
「優勝はなくなった。『2位』確保に向けて、切り替えてやっていこう」
甲子園の 2塁の定位置後方。わずか数十秒の訓示だったが、緊張感が走った。前日18日に直接対決の末、広島に敗れ、胴上げをみせつけられた。悔しい…。その思いを大事にしてほしいと願いつつ、緊張の糸が切れることだけはしたくなかった。檄の最後には「いいね? 孝介?」と福留を名指し。40歳の主将は「ハイ」と 2回、鋭い返事で応えた。
練習する上本博紀内野手=阪神甲子園球場
「CSに向けて、モチベーションを上げていこうということ。もちろん(日本一へ)チャンスがあるわけだから。今まではロッテが『3位』から、中日だって落合さんのときに『2位』から日本一になっている。そこを目指して、気持ちを切り替えてやっていこう、と」
セ・パでCSが導入されたのは2007年。賛否両論を呼ぶ敗者復活制度に対し、現役だった当初は「優勝もしていないのになんで? という感じで、意識もモチベーションも低かった」と、とまどいを隠せなかったことを明かした。ただ、制度導入から11年。「そうじゃない時代になってきている」と話す。
「CSを勝ち抜いて、日本シリーズで勝って日本一になっても十分に価値あるものだしね」
練習に臨む能見篤史投手=阪神甲子園球場
阪神の日本一は1985年の 1度だけ。和田監督時代の2014年に「2位」でCSを突破し、日本シリーズに進出(ソフトバンクに敗戦)したが、過去 6度のCSで 5度、ファーストステージで敗退。短期決戦で苦しんできた過去がある。もちろんペナントレースを制することが最優先だが、夢破れた今季、次の目標に突き進むだけだ。
20日は「3位」DeNAを「0.5」差で追う「4位」巨人との伝統の一戦。甲子園では10日のDeNA戦以来、 4戦勝ちなし(2敗2分け)だ。CSで対決する可能性がある宿敵を倒し、下克上へ再スタートする。
練習するラファエル・ドリス投手=阪神甲子園球場
★主な下克上日本一
◆2007年・中日:「2位」でシーズンを終えると、第 1ステージは阪神戦に「2連勝」。第 2ステージでも東京ドームで巨人に「3連勝(当時は1位アドバンテージなし)」で破った。北海道日本ハムとの日本シリーズは、「3勝1敗」で迎えた第 6戦で先発・山井から守護神・岩瀬のパーフェクト継投で勝利し、日本一になった。
◆2010年・ロッテ:「3位」でシーズンを終え、ファーストステージで西武に「2連勝」。ソフトバンクとのファイナルステージ(ヤフードーム)は第 1戦に勝利も第 2、 3戦に連敗。王手( 1敗はアドバンテージ)をかけられたが、そこから「3連勝」で突破。中日との日本シリーズは「3勝2敗」で迎えた第 6戦が 2- 2の引き分け。第 7戦も延長12回までもつれ込んだが、岡田の決勝打で 8- 7と勝利し、日本一に。
虎を導くヒーロー宣言!? 糸井嘉男外野手が19日、20日の巨人戦(甲子園)に備えて、本拠地で全体練習に参加。前日に広島に敗れ、優勝が消滅してから一夜。再スタートの日に「ジャンヌ・ダルク」と 3度、連呼した。「2位確保、CS(クライマックスシリーズ)突破、そして日本一」へ。言葉の真意は明かさなかったが、歴史的人物と同様、先頭に立って戦う覚悟…と言いたいはずだ!
--まだ室内の方で練習がありますんで…
ベンチ裏から選手ロッカーへ通じる通路。スタッフが、待ち構える報道陣にやんわり“取材自粛”を伝えた直後だった。
「ジャンヌ・ダルク」
謎の言葉が聞こえてきた。声の主は間違いなく糸井。予期せぬ仰天フレーズに呆然とする記者など眼中にないかのように再び…
「ジャンヌ・ダルク」
さらに歩を進めて、ダメ押しのもうひと声…
「ジャンヌ・ダルク」
歴史上のあの超有名人のことなのか。 3度、繰り返し、その後、糸井は報道陣の前に戻ってくることはなかった。
どういう意味?
そりゃ、誰もが思う。でも、こんなの本人しか分かるはずがない。不思議な世界に棲む男だ。突然、「バウバウ」と叫んだかと思えば、「賄賂」と言いながら5000円札を出して記者の質問を封じようとする。糸井ワールドは誰も説明などできないのだから。
再スタートの日だった。練習前には甲子園の外野で円陣が。金本監督の檄に、背番号「7」も耳を傾けていた。
金本知憲監督(後ろ)の見守る前で、フリー打撃を行う糸井嘉男外野手。虎を引っ張る!=阪神甲子園球場
前日の広島戦。一塁ベンチに座り、腕組みしながら胴上げを目に焼き付けると「リベンジしかない? そうですね」とつぶやいた。優勝を逃した悔しさはある。が、日本一の可能性はまだ残っている。虎の超人も思いを新たにしたはず。切り替えるしかない、と。
いきなりロングティーを志願。不振から脱出する時も、好調を維持する時も、一番頼りにしてきた練習方法で、ターゲットをCSに定めたのだろう。打ちまくって、俺が引っ張る-。今は劣勢だが、必ず逆転する-。そんな思いを込めて。
「引っ張る」
「逆転する」
2つのフレーズと、冒頭の糸井の言葉。世界史にあまり詳しくないあなたでも、思い出しませんか? フランスが生んだ、あの世界的ヒロインの実話を。
英国との「100年戦争」で劣勢の母国フランスを救うため、軍旗を手に先頭に立って引っ張ったジャンヌ・ダルクの勇姿。そして、敵を打ち破った、あの歴史上の大逆転劇。ひょっとしたら、糸井は神のお告げ、ならぬ“FAのお告げ”でタテジマにやってきた、現代の奇跡のヒーローかもしれない。
そう思って糸井のジャンヌ・ダルク宣言を聞くと、CSを勝ち抜いて、日本一になる猛虎の姿まで、見え隠れする。
「右脇腹の筋挫傷」から 1軍戦線に戻ったのが 8月17日。スタメン復帰した翌18日から25試合連続出塁中で、連続安打も12試合続いている。 9月は打率 0.379。まさしく虎を引っ張るヒーローだ。強敵カープを倒す。奇跡の逆転日本一ロードの扉が今、糸井によって開かれる!?
打撃練習に臨む糸井嘉男外野手。奥は金本知憲監督=阪神甲子園球場
★糸井、今季の迷言!?
1月31日、沖縄・宜野座キャンプを前に今年のテーマを問われ「一文字? じゃあ『超』!」。 2月21日には外野でランニング中、フリー打撃中の福留の打球が右肘を直撃し、ひやりとさせたが「収穫や! 硬球は硬くて痛い」と笑わせた。広島との開幕戦(マツダ)を翌日に控えた 3月30日には「ヤバい、震えている…。ウッソ、ピョン!」とにやり。 4月12日のDeNA戦(横浜)で適時打を放った際には「ウエポン(上本)のヒット見たら、火ついてまうやろ!」と粋なコメントを残した。
★ジャンヌ・ダルクあらかると
◆舞台:2010年に堀北真希、2014年には有村架純が主演を務めた。また1999年にはリュック・ベッソン監督、ミラ・ジョボヴィッチ主演で映画化された。
◆政界:不倫疑惑で話題となった山尾志桜里議員は、昨年「保育園落ちた日本死ね」を国会の場で取り上げ、「民進党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた。
◆卓球:卓球の四元奈生美は卓球の地味なイメージを払拭すべく、斬新なユニホームなどでアピールし、「卓球界のジャンヌ・ダルク」に。
◆歌詞にも:1978年、アリスの堀内孝雄のヒット曲「君のひとみは10000ボルト」には「二十世紀のジャンヌ・ダークよ」という歌詞が出てくる。
◇ジャンヌ・ダルクとは
15世紀、英国との百年戦争で敗北寸前にあったフランスを17歳にして勝利に導いた救世主。東部の農家の娘だったが「フランスを救いなさい」という神のお告げを受け、軍旗を持ち、先頭に立って英国軍のオルレアン包囲を打ち破った。19歳の時に英国で捕虜となり、宗教裁判にかけられて火刑に処せられたが、死後、ローマ法王の命令による裁判で1456年に名誉回復した。
菅野智之投手との「4度目」の対決へ向け、調整する秋山拓巳投手=阪神甲子園球場
20日の巨人戦(甲子園)に先発する秋山拓巳投手(26)が19日、甲子園で調整。「打者には違った印象を与えられるようにしたい。CSもあるので」とニュースタイルでのライバル封じを宣言した。
今季、巨人戦は過去 3試合で「1勝1敗、防御率1.35」。ただ、これまで同様の投球ではなく、CSで再び相まみえる可能性があるだけに、今までとひと味違う“ニュー秋山”を見せることも、重要と考えている。
さらに過去 3度はすべてエースの菅野との投げ合い。数字上では「1勝1敗」だが、前回14日はリードの展開でマウンドを降りた。実質的には「2勝1敗」だ。それでも、「打席に立って見て、張り合えるレベルじゃないです。食らいついて行くしかないです」と、挑戦者として向かっていく。
「あれだけの投手なので、やり甲斐は感じています」
ひょっとしたら、CSでも投げ合うことも。喜びを感じながら、「13勝」目を目指す。
☆秋山について阪神・香田勲男投手コーチ
「前回同様、彼らしい投球を期待したい。粘り強く投げてほしい」
練習中、顔をしかめる坂本誠志郎捕手。アクシデント発生だ=阪神甲子園球場
またも、故障者…。坂本誠志郎捕手が19日、甲子園での練習中に左脇腹を痛めた。金本知憲監督は抹消する可能性が高いことを説明。 8月下旬から18試合連続でスタメンマスクを任されていた 2年目に、まさかのアクシデントだ。
端正な顔だちがゆがむ。首脳陣も眉根を寄せる。トレーナーを引き連れながら、坂本がクラブハウスへと戻った。まじか。ペナントレースの勝負どころで緊急事態だ。
「おそらく、脇腹を痛めたんでしょう。抹消でしょうね、もう」
ティー打撃中に痛みに襲われた坂本に対し、金本監督が厳しい表情で見通しを語った。矢野作戦兼バッテリーコーチも「明日どうこうは厳しいんじゃないかな。脇腹は厳しい。普通には歩いてはいたけど、違和感が強いということでしょう。普段、『痛い』とかいわないやつだから…」と話した。球団関係者によると、病院での診察の都合により、この日の抹消はなかったものの、このまま戦線離脱となる可能性が高い。
練習に臨む坂本誠志郎捕手=阪神甲子園球場
メッセンジャー、糸原、西岡。復帰したとはいえ糸井や大和ら今季は故障者が続出する中で、待望の正妻候補まで…。指揮官は「せっかく、いい経験を積んできて、打撃も慣れてきているかなという時期だっただけに。肩も強くなったし」とがっくりだ。
2年目の今季、右手親指の骨折で開幕こそ出遅れた坂本だが、 7月 5日に 1軍昇格してから成長を証明。課題の打撃も「打率0.248、2本塁打、17打点」と奮闘し、 2盗阻止も目立つようになっていた。最近18試合連続でスタメンマスクをかぶっていただけに、ここから「2位」確保、CS突破を目指していくチームにとっては、痛すぎる。
全員野球でファン皆が待ち望む「二文字」に向かって、全員で力を合わせて進め! ガンバレ!阪神!我らのタイガース!勝利を掴め!
2017年 公式戦 順位表
2017年 公式戦 日程と結果(09月)
2017年 公式戦 日程と結果(10月)
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※このスローガン・デザインは、2017年のシーズンロゴとしても展開して参ります。