●中日のエースとして「燃える男」、中日、阪神、楽天の監督時代は「闘将」と呼ばれた楽天・星野仙一球団副会長が 4日午前 5時25分に死去した。70歳。楽天が 6日に発表した。2016年 7月に急性膵(すい)炎を発症したことをきっかけに膵臓(すいぞう)がんであることが判明。「余命90日」といわれたなか、病と闘い続けてきた。この日は近親者で密葬を行い、後日、お別れの会を開く予定。空までも泣いているようだった。「余命3カ月」から 1年半、生き抜いた男に天までも涙した。“燃える男”星野仙一氏が人知れず逝った。先に旅立った愛妻とのツーショット写真とともに荼毘にふされた。星野氏、死去-。衝撃が日本列島を駆け抜けた。 4日午前 5時25分、愛娘に抱きかかえられたまま、その腕の中で、静かに息を引き取った。高校は倉敷工業高校を希望したが倉敷商業高校。甲子園とは無縁で、大学は立教大學を目指したものの明治大學。プロでは巨人に入団するものだと思っていたが、中日…。ドラゴンズでは打倒巨人に闘志を燃やした。ONがいた巨人相手に「通算35勝」。しかし、その歴史を球団から否定された。つらかった。苦しかった。そんな時、阪神から誘われた。2002年からの激動の 2年。2003年 9月15日、歓喜の胴上げ。でも優勝したからだけではない。歴史を否定された男の意地だった。そして東北に身を投じた。しかし2011年に東日本大震災が発生。 2年後、今度は被災地に光を運んだ。 3球団で指揮を執り、「リーグ優勝」 4回で「日本一」は一度。歴史に残る名将となった。病名を明かすことなく 6日午後。曇天の中、愛娘宅で家族葬が営まれた。三木谷浩史オーナー(52)が参列したが球界関係者はごくわずか。 2日に倒れた際に負ったあごの擦過傷をのぞけば、今にも起き出してくるような表情だった。棺には楽天のユニホーム。黒のボルサリーノ(帽子)に、扶沙子夫人との写真が収められた。晩年、事あるごとに、こうつぶやいていた。「余命90日」からの挑戦。星野氏は愛娘の腕のぬくもりを頬に感じたまま、恋女房と“再会”する。
● 4日に死去した星野仙一氏は2013年にプロ野球楽天を初の「リーグ優勝」と「日本一」に導き、東日本大震災の被災地となった東北に歓喜をもたらした。昨年11月28日に行われた野球殿堂入りを祝う会で「ずっと野球と恋愛してきて良かった。もっともっと野球に恋をしたい」とあいさつした。野球を通じて夢を与え続けた70年の人生だった。2005年の球団創設当初から低迷が続いた楽天の初の栄冠は、星野監督自身にとっても、現役時代からの宿敵巨人を倒して手にした初の「日本一」だった。副会長を務めていた楽天球団によると、息を引き取る直前まで「コーチ会議に出られるかな」と話していたという。最後まで野球への情熱は薄れることはなかった。
●楽天立花陽三球団社長が 6日、 4日に死去した星野仙一副会長に対して追悼のコメントを発表した。2018年は『優勝』することを星野さんと約束してきました。監督・選手・スタッフ・職員一丸となって星野さんの夢を叶えたいと思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
●日本野球機構(NPB)の斉藤惇コミッショナーが 6日、楽天の星野仙一球団副会長が死去したことについてコメントを発表した。
●楽天梨田昌孝監督(64)が楽天星野仙一球団副会長の死去を受けコメントを発表した。
●阪神金本知憲監督(49)が 6日、楽天の星野仙一球団副会長の死を悼んだ。兵庫・西宮市内の球団事務所で対応。金本監督は現役時代、広島からフリーエージェント宣言した2002年オフに当時、阪神監督だった星野氏から熱心に誘われて阪神入団を決意した経緯がある。2003年には主力として18年ぶりの「リーグ優勝」に貢献。師弟関係を結ぶ間柄だった。悲しみを押し殺すように感謝した。鉄人と称された野球人生の原点とも言える恩人だ。星野監督の印象に残る言葉を問われると神妙な表情で振り返った。
●阪神の球団首脳も楽天星野仙一球団副会長が亡くなったことを悼んだ。
●18年ぶりの優勝を決めた2003年 9月15日。広島戦(甲子園)でマジックを「1」とするサヨナラ打を放った赤星憲広氏(41)は、虎ファンの記憶に刻まれる名シーンを振り返った。「殿堂入りパーティーで会った時も『体は大丈夫かー』と僕の方の体調を気にかけるような方。子どもの頃から中日ファンで星野さんと立浪さんのファン。一緒に野球をやらせていただいて幸せでした」と感謝した。記事をまとめてみました。
中日のエースとして「燃える男」、中日、阪神、楽天の監督時代は「闘将」と呼ばれた楽天・星野仙一球団副会長が 4日午前 5時25分に死去した。70歳。楽天が 6日に発表した。2016年 7月に急性膵(すい)炎を発症したことをきっかけに膵臓(すいぞう)がんであることが判明。「余命90日」といわれたなか、病と闘い続けてきた。この日は近親者で密葬を行い、後日、お別れの会を開く予定。
空までも泣いているようだった。「余命3カ月」から 1年半、生き抜いた男に天までも涙した。“燃える男”星野仙一氏が人知れず逝った。先に旅立った愛妻とのツーショット写真とともに荼毘にふされた。
2003年 9月15日。阪神を18年ぶりの優勝に導き、宙に舞った星野仙一監督
星野氏、死去-。衝撃が日本列島を駆け抜けた。 4日午前 5時25分、愛娘に抱きかかえられたまま、その腕の中で、静かに息を引き取った。例年、年末年始は海外でリフレッシュするが、今回は三重県内の娘夫婦宅で過ごした。 2日夜。トイレで転倒し、あごと腰を強打したが翌 3日も普通に食事を摂っていた。しびんを用意した家族に「要らんよ」。笑顔があった。翌朝、体調は急変。楽天の発表によれば「最期は昼寝でもしているような安らかな表情」だった。
病と闘った。2016年 7月に急性膵炎を発症したことをきっかけに膵臓がんであることが判明。当初の診断は関係者によれば「余命3カ月」。治療のため東京、九州、千葉と全国を走り回った。「女房の分まで生きる。そう約束したんや」。1997年 1月31日に51歳の若さで白血病による肺出血でなくなった扶沙子夫人の無念の思いを込めて走り続けた。
しばしの“休息”が必要だった。「本当は行きたくない道を歩んできた」。高校は倉敷工を希望したが倉敷商。甲子園とは無縁で、大学は立教大を目指したものの明治大。プロでは巨人に入団するものだと思っていたが、中日…。ドラゴンズでは打倒巨人に闘志を燃やした。ONがいた巨人相手に「通算35勝」。しかし、その歴史を球団から否定された。つらかった。苦しかった。そんな時、阪神から誘われた。
2017年 7月、インタビューに答える星野仙一楽天球団副会長
2002年からの激動の 2年。2003年 9月15日、歓喜の胴上げ。でも優勝したからだけではない。「めちゃくちゃ面白かった」。歴史を否定された男の意地だった。そして東北に身を投じた。しかし2011年に東日本大震災が発生。 2年後、今度は被災地に光を運んだ。 3球団で指揮を執り、「リーグ優勝」 4回で「日本一」は一度。歴史に残る名将となった。
昨年11月28日には東京で、12月 1日には大阪で野球殿堂入りを祝うパーティーが行われた。ギリギリの状態だった。近しい人間は、よろめきかけた姿に「危険を感じた」とつぶやいた。
病名を明かすことなく 6日午後。曇天の中、愛娘宅で家族葬が営まれた。三木谷浩史オーナーが参列したが球界関係者はごくわずか。 2日に倒れた際に負ったあごの擦過傷をのぞけば、今にも起き出してくるような表情だった。棺には楽天のユニホーム。黒のボルサリーノ(帽子)に、扶沙子夫人との写真が収められた。
2017年 1月、野球殿堂入りが決まり、笑顔を見せる星野仙一楽天球団副会長=東京都文京区の野球殿堂博物館
遺族は死の公表を週明けにする予定だった。「高校ラグビーや高校サッカーなど正月の風景を邪魔したくない」が理由。“遺志”は叶わなかったが、この思いもホシノ流だった。
「幸せな人生やと思うよ。女房のおかげで 2人の娘がきちんと家族を持ち、孫にも恵まれた。こんな人生ってあるか? ないやろ」
晩年、事あるごとに、こうつぶやいていた。「余命90日」からの挑戦。星野氏は愛娘の腕のぬくもりを頬に感じたまま、恋女房と“再会”する。
◇膵臓(すいぞう)がん
60歳以上の高齢男性に多く発症。がん発生時は症状が出にくいため早期発見が難しく、進行してから発見されることが多い。進行が早く腹痛、腰背部痛、食欲不振、体重減少などの症状がみられ、糖尿病を発症することも。発生要因は慢性膵(すい)炎、肥満、喫煙など。
2003年 9月、「リーグ優勝」を決め、胴上げされた阪神・星野仙一監督=阪神甲子園球場
◇星野 仙一(ほしの・せんいち)
元投手。1947(昭和22)年 1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大學を経て1969年「ドラフト1位」で中日入団。エースとして活躍し、1974年に「沢村賞」。 2度の「リーグ優勝」に貢献し、通算「146勝121敗34セーブ、防御率3.60」。1982年に引退し、監督としては中日で1988、1999年、阪神で2003年に「リーグ優勝」。2008年「北京五輪日本代表」監督(4位)。2011年から楽天を指揮し、2013年は球団初の「リーグ優勝」と「日本一」に導いた。監督通算「1181勝1043敗53分け」。2014年限りで退任し、シニアアドバイザーを経て球団副会長。2017年野球殿堂入り。現役時代のサイズは 1メートル80、80キロ。右投げ右打ち。
4日に死去した星野仙一氏は2013年にプロ野球楽天を初の「リーグ優勝」と「日本一」に導き、東日本大震災の被災地となった東北に歓喜をもたらした。昨年11月28日に行われた野球殿堂入りを祝う会で「ずっと野球と恋愛してきて良かった。もっともっと野球に恋をしたい」とあいさつした。野球を通じて夢を与え続けた70年の人生だった。
楽天の監督就任 1年目に震災が起き、日常の景色が一変する中、全力を尽くした。レギュラーシーズンで24勝 0敗の田中将大投手(現ヤンキース)を擁して日本シリーズで宿敵の巨人を倒した。
3勝 3敗で迎えた第 7戦、 3- 0とリードして 9回を迎えると、ちゅうちょすることなく前日 160球を投げて完投負けした田中投手の名前を球審に告げる。「(第 6戦が)情けない投球だったので、出番がもらえるならいつでもいく」と救援の機会を待っていたエースの心意気をくみ「最後はあいつがふさわしい」と送り出した。
星野仙一楽天球団副会長(2015年11月24日撮影)
本拠地仙台のファンは主役の登場を総立ちで迎え、大歓声を受けた田中投手は無失点で「日本一」をつかみとった。2005年の球団創設当初から低迷が続いた楽天の初の栄冠は、星野監督自身にとっても、現役時代からの宿敵巨人を倒して手にした初の「日本一」だった。
場内インタビューでは「大震災でご苦労なさっているみなさんを見ると、『日本一』になって癒やしてあげたい、それしかないと信じてこの 3年間戦ってきました。ほんの少しでも、すずめの涙でも癒やしてあげられたらといつも考えていました」と話した。
副会長を務めていた楽天球団によると、息を引き取る直前まで「コーチ会議に出られるかな」と話していたという。最後まで野球への情熱は薄れることはなかった。
楽天球団立花陽三球団社長(2014年 7月12日撮影)
楽天立花陽三球団社長が 6日、 4日に死去した星野仙一副会長に対して追悼のコメントを発表した。
立花球団社長 星野さんの突然の訃報に接し、残念で仕方がありません。ご病気のことは2016年夏にお伺いしました。そこからチームの闘いと同時に、病との闘いも始まりました。しかし、星野さんは苦しい姿を周囲に一切見せず、チームを強くすることだけを考え闘ってくださいました。その姿を見てきたからこそ、2017年は何としてでも優勝したかった。先ほど、2018年は『優勝』することを星野さんと約束してきました。監督・選手・スタッフ・職員一丸となって星野さんの夢を叶えたいと思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
2016年12月に自宅でインタビューを受ける星野仙一楽天球団副会長
日本野球機構(NPB)の斉藤惇コミッショナーが 6日、楽天の星野仙一球団副会長が死去したことについてコメントを発表した。
「突然のご訃報に驚き、深い哀悼の念を感じております。現役選手、そして闘将としての指揮官時代のご功績に改めて敬意を表したく存じます。楽天球団幹部となられてからも、プロアマ一体となった野球界全体の発展を常に考えておられました。子供たちに野球の夢を与える事を熱く訴えておられました。その野球への情熱をご遺志として重く受け止めたいと思います。ご冥福をお祈りいたします」
楽天梨田昌孝監督
楽天梨田昌孝監督が楽天星野仙一球団副会長の死去を受けコメントを発表した。「想像もしていなかったので、ただただ驚いています。『星野仙一』の真似は出来ませんが、あの厳しさと威圧感を継承しながら、心新たに現場とフロントが一体となり戦ってまいります」。
〈-2へ続く〉