●今年 1月に死去した星野仙一氏の追悼試合として、阪神-中日のオープン戦が甲子園で行われ、球場前には献花台が設けられた。当初 1カ所だった献花台を 2カ所に変更された。受け付け開始時間も 1時間早い 9時に変更された。球団オープン戦最多の 3万2741人(2010年 3月14日巨人戦)に迫る、 3万2165人の観客が集まった。球場前は午前 8時半の段階で、 1号門付近にまで長蛇の列ができ、開門は 1時間繰り上げの午前10時となった。献花台には球団が用意した白い花に加えて、ファンが持参したさまざまな色の花が手向けられた。阪神だけでなく、楽天や中日のユニホームを身にまとったファンも訪れた。献花台には星野氏の笑顔の 5枚の写真が飾られ、こらえきれず涙ぐむファンもいた。試合前には追悼セレモニーとして、星野氏の功績をたどる約 7分間の映像が流された後、黙とうがささげられた。前日 9日の午後 4時半から並んだ松田広之さん(65=会社員)は大阪星野仙一後援会の会員。後援会の仲間、45人と追悼試合に駆けつけた。
●阪神は、2003年の優勝監督で 1月に逝去した星野仙一氏(享年70)の追悼試合を引き分けた。 1回にウィリン・ロサリオ内野手(29)が先制適時打を放ち、 4回には高山俊外野手(24)の「右翼線適時2塁打」で加点。リードを保って終盤に入ったが、土壇場の 9回に追いつかれた。金本知憲監督(49)は「特別な日なので、勝ちたかったですけど、勝ちきれんかったね」と振り返った。チームはオープン戦開幕戦から「6連敗中」だったが、悪循環を断てなかった。試合前、ナイン、コーチとともに星野氏の監督時代の背番号「77」に初めて袖を通した。鏡に映る自分の姿に思わず、笑みがこぼれた。背番号を少々重く感じたが、燃える男の魂は体に乗り移っていた。 1回の攻撃から本番さながらのタクト。先頭・鳥谷敬内野手(36)が四球で歩くと、俊介外野手(30)には手堅くバントを命じた。二死 2塁からロサリオが 3遊間を破る先制打-。停滞していた打線がつながった。虎党は早くも「六甲おろし」を歌い上げた。プレーボール直前に流れた追悼映像を直立不動で見つめた。阪神・星野監督の誕生。自らのフリーエージェントでの阪神加入。そして、2003年の「V」-。闘う集団に変わった軌跡を回想した。考えに行き詰まると、恩人が側にいてくれる。迷いが消え、勇気が湧いてくる気がした。星野氏のご遺族が、貴賓室で観戦していた。だから、ウイニングボールを届けたかった。 2点リードを高橋聡、マテオが守れず、まさかの引き分け。苦いドローは忘れられない“遺言”となる。開幕まで残り 3週間。もう足踏みしない。13年ぶりの「リーグ優勝」、そして大恩人が虎で果たせなかった日本一へ、突き進んでいく。
●高山俊外野手が、追加点となる「適時2塁打」を放った。 4回二死 1、 2塁で、カウント 2- 0からの 3球目をスイング。うまくバットに乗せて、右翼線へと運んだ。 2塁ベースに到達すると、両手をポンとたたいた。この日は「9番レフト」でスタメン出場。開幕1軍生き残りをかけてアピールを続けている。「明治」の魂を受け継ぐ者が、この日この場所で活躍しないわけにはいかない。 4回二死 1、 2塁。高山が笠原祥太郎投手(22)の外寄り 127キロカットボールをうまくバットで拾う。打球は右翼線に弾む「タイムリー2塁打」に。 2塁から明治大學の 1年先輩・糸原健斗内野手(25)が生還。星野氏の追悼試合で後輩コンビが 1点を奪った。闘将がタテジマに残した「戦うDNA」。先頭に立って引っ張っていくのは、明治大學の後輩たちの宿命だ。
●福留孝介外野手(40)が 2塁打を放った。今年 1月に死去した星野仙一氏の追悼試合に志願出場。 1回の第 1打席は見逃し三振に倒れたが、 3回の第 2打席ではカウント 1- 1からの 3球目を左中間へ。 2塁打とした。思いを打球に込めた。星野氏の追悼試合に志願してオープン戦に初出場した福留が、快音。恩師に捧げたのは19年前のプロ初安打と同じ 2塁打だった。 3回二死から打席に入ると、笠原の直球を一閃。打球は左中間を突き破り、悠々と 2塁まで到達した。脳裏に浮かんだのはプロ 1年目で迎えた1999年 4月 4日の広島戦(ナゴヤドーム)。日本生命から中日を逆指名して、「1位」で入団、当時指揮を執っていた星野氏の前で放ったプロ初安打が 2塁打だった。その直後の 4月28日の阪神戦(同)では「本塁打、3塁打、2塁打」を放ち、単打が出れば、サイクルヒットという終盤に、守備固めに久慈(現阪神内野守備走塁コー)を送られた。守りが課題だった愛弟子に「替えのきかない選手になれ」というメッセージだった。星野氏が阪神で成し遂げられなかった「日本一」へ-。闘将の魂を継承した主将がチームを引っ張り続ける。
●開幕ローテ入りが当確している秋山拓巳投手(26)が、今年初の甲子園で好投した。先発として 5回まで登板したが、許した安打は初回のソイロ・アルモンテ外野手(28)の 2塁打のみ。72球で 5回無失点に抑え 7三振を奪った。試合後はオープン戦初マスクの原口文仁捕手(26)に感謝した。秋山はオープン戦 3戦で「防御率0・00」と好投を続けているが、さらなる上昇を目指す。非の打ち所がない。秋山の投球を見守った金本監督の一言にすべてが凝縮された。 5回 1安打無失点。無四球で 7三振を奪った。結果もさることながら、内容も充実。若き右腕は本番を見据え、同一リーグの中日相手に“煙幕”を張っていたのだ。左打者に新球のチェンジアップを駆使した。隠すのではなく、新たなスタイルを披露し、敵軍を惑わすことができれば、配球の幅は格段に広がる。順当にいけば、シーズンの初陣は開幕カード 2戦目の31日の巨人戦(東京ドーム)が有力。そして、翌週には中 5日に詰めることも選択肢のひとつとして、この日、対戦した中日戦( 4月 6~ 8日、京セラドーム)が控える。それだけに同学年の原口の好リードも相まって、収穫たっぷりの72球になった。背番号「77」をまとった特別な一戦でも、自身の投球を貫いた若武者。課題がすぐに口をつくほど、地に足はついている。昨季「12勝」からのさらなる飛躍の予感が漂う。
記事をまとめてみました。
<オープン戦:阪神 2- 2中日= 9回規定により引き分け>◇10日◇阪神甲子園球場
今年 1月に死去した星野仙一氏の追悼試合として、阪神-中日のオープン戦が甲子園で行われ、球場前には献花台が設けられた。
当初 1カ所だった献花台を 2カ所に、受け付け開始時間も 1時間早い 9時に変更された。
献花台には球団が用意した白い花に加えて、ファンが持参したさまざまな色の花が手向けられた。阪神だけでなく、楽天や中日のユニホームを身にまとったファンも訪れた。献花台には星野氏の笑顔の 5枚の写真が飾られ、こらえきれず涙ぐむファンもいた。
試合前には追悼セレモニーとして、星野氏の功績をたどる約 7分間の映像が流された後、黙とうがささげられた。
故星野仙一氏の献花台が置かれた阪神甲子園球場
星野氏の追悼試合には実数発表になった2005年以降、球団オープン戦最多の 3万2741人(2010年 3月14日巨人戦)に迫る、 3万2165人の観客が集まった。球場前は午前 8時半の段階で、 1号門付近にまで長蛇の列ができ、開門は 1時間繰り上げの午前10時となった。前日 9日の午後 4時半から並んだ松田広之さんは大阪星野仙一後援会の会員。後援会の仲間、45人と追悼試合に駆けつけた。松田さんは「2003年の優勝が一番の思い出」と胸を焦がした。
阪神は、2003年の優勝監督で 1月に逝去した星野仙一氏の追悼試合を引き分けた。
1回にロサリオが先制適時打を放ち、 4回には高山の「右翼線適時2塁打」で加点。リードを保って終盤に入ったが、土壇場の 9回に追いつかれた。金本知憲監督は「もちろん、特別な日なので、勝ちたかったですけど、勝ちきれんかったね」と振り返った。チームはオープン戦開幕戦から「6連敗中」だったが、悪循環を断てなかった。
試合前、故星野仙一氏に黙とうを捧げる金本知憲監督(右)ら阪神ナイン=阪神甲子園球場
必ず弔いVを-。阪神は10日、 1月 4日に膵臓がんで死去した元監督、星野仙一氏の追悼試合として中日と甲子園で対戦し、 2- 2のドロー。オープン戦今季初勝利はならなかった。ナインとともに星野氏の代名詞である背番号「77」のユニホームを着た金本知憲監督は「2003年の喜びを選手には味わわせてあげたい」と決意を新たにした。
3万2165人を詰め込んだマンモスが揺れた。 2- 2の 9回二死 1、 2塁。抜けたか! サヨナラか!! だが、糸原の痛烈な打球はダイブした遊撃手・京田のグラブに吸い込まれた。劇的決着はならず、オープン戦初白星はお預け…。オープン戦 7戦勝ちなしとなった金本監督は「もちろん、特別な日で勝ちたかった。きょうは勝ち切れんかった」と唇をかんだ。
試合前、ナイン、コーチとともに星野氏の監督時代の背番号「77」に初めて袖を通した。鏡に映る自分の姿に思わず、笑みがこぼれた。
試合前、星野仙一氏への黙とうを捧げる金本知憲監督(右)ら阪神ナイン。白星は届けられなかったが、思いは一つ、優勝だ=阪神甲子園球場
「僕には似合ってなかったねぇ」
背番号を少々重く感じたが、燃える男の魂は体に乗り移っていた。 1回の攻撃から本番さながらのタクト。先頭・鳥谷が四球で歩くと、俊介には手堅くバントを命じた。二死 2塁からロサリオが 3遊間を破る先制打-。停滞していた打線がつながった。虎党は早くも「六甲おろし」を歌い上げた。
プレーボール直前に流れた追悼映像を直立不動で見つめた。阪神・星野監督の誕生。自らのフリーエージェントでの阪神加入。そして、2003年の「V」-。闘う集団に変わった軌跡を回想した。
「なつかしさと寂しさと…。2003年の喜びというのを選手には味わわせてあげたいですね」
球場外に設置された星野氏を偲ぶ献花台には多くの阪神ファンが訪れた=阪神甲子園球場
もう一度、会いたい。現実を受け止めた後、そう願った。「俺だけ、こっそり行ってでも、手を合わせたい。家に入れなくても構わない。家の外からでもいい」。三重県内でこの世を去った星野氏が、自宅のある芦屋市内に戻ってくるのを待ったが、かなわなかった。その代わり“父親”との会話を常にしようとした。2003年10月23日、ダイエー(現ソフトバンク)との日本シリーズ第 4戦(甲子園)でサヨナラアーチを放った時に抱きしめられた写真を自宅の部屋に置いた。
「星野さん以外だと、誰が監督であろうと(阪神に)きていない」
考えに行き詰まると、恩人が側にいてくれる。迷いが消え、勇気が湧いてくる気がした。
阪神・大山悠輔内野手=阪神甲子園球場
星野氏のご遺族が、貴賓室で観戦していた。だから、ウイニングボールを届けたかった。 2点リードを高橋聡、マテオが守れず、まさかの引き分け。攻撃面では 7回無死 1塁では俊介のサイン見落としがあるなど、残塁は「13」を数えた。闘将が亡くなる直前、虎に残した言葉がある。それは「トドメをさせ!」-。相手の息の根を止めるまで中押し、ダメ押し点を狙わなければ、どこで試合の流れが逆流するか分からない。勝負の鉄則を改めて空の上から教えてもらった「3.10」。苦いドローは忘れられない“遺言”となる。
開幕まで残り 3週間。もう足踏みしない。13年ぶりの「リーグ優勝」、そして大恩人が虎で果たせなかった日本一へ、突き進んでいく。
阪神・原口文仁捕手=阪神甲子園球場
★テレビで解説を務めた法政大學時代からの盟友、田淵幸一氏(70)
「(2002年の阪神打撃チーフコーチ就任で)親友から、大親友になった。心を開いて何でも話せる相手。同級生だけど、いろいろなことを教わった。(星野氏は)背番号「77」だから『70歳までがんばる』と言っていて、俺は『(「88」だから)80歳までいくぞ』と話していた」
★星野氏と77番
1982年の現役引退後、元巨人監督の川上哲治氏が在籍していたNHKの解説者を務め、影響を受けた。明大野球部監督の島岡吉郎氏から「動」の指導者像を叩き込まれた星野氏は「V9」監督から「静」の姿勢を学んだ。1987年に中日監督に就任する際、「川上さんを超えてみせます」と“承諾”を得て、「77」番をつけた。17年間に及ぶ闘将人生の代名詞となった。
阪神・中谷将大外野手=阪神甲子園球場
◇データBOX◇
◎…オープン戦で 6戦 6敗だった阪神は10日、中日と引き分けて、 7戦勝ち無し。最近のオープン戦序盤での勝ち無しは2014年に初戦の引き分け後、「7連敗」したことがある。同年は「公式戦2位」で、CSを勝ち抜いて日本シリーズに進んでいる。
◇星野 仙一(ほしの・せんいち)
元投手。1947(昭和22)年 1月22日生まれ。岡山県出身。倉敷商業高校、明治大學を経て1969年「ドラフト1位」で中日入団。エースとして活躍し、1974年に「沢村賞」。 2度の「リーグ優勝」に貢献し、「通算146勝121敗34セーブ、防御率3.60」。1982年に引退し、監督としては中日で1988、1999年、阪神で2003年に「リーグ優勝」。2008年「北京五輪日本代表監督( 4位)。2011年から楽天を指揮し、2013年は球団初の「リーグ優勝」と「日本一」に導いた。「監督通算1181勝1043敗53分け」。2014年限りで退任し、シニアアドバイザーを経て球団副会長。2017年野球殿堂入り。現役時代のサイズは 1メートル80、80キロ。右投げ右打ち。2018年 1月 4日、膵臓がんにより、70歳で死去。
4回裏阪神二死 1、 2塁、高山俊外野手は「右越え適時2塁打」を放った=阪神甲子園球場
高山俊外野手が、追加点となる「適時2塁打」を放った。
4回二死 1、 2塁で、カウント 2- 0からの 3球目をスイング。うまくバットに乗せて、右翼線へと運んだ。 2塁ベースに到達すると、両手をポンとたたいた。
この日は「9番レフト」でスタメン出場。開幕1軍生き残りをかけてアピールを続けている。
金本知憲監督、コーチ、選手全員が星野氏の「77」を着用して追悼試合に臨んだ=阪神甲子園球場
「明治」の魂を受け継ぐ者が、この日この場所で活躍しないわけにはいかない。 4回二死 1、 2塁。高山が笠原の外寄り 127キロカットボールをうまくバットで拾う。打球は右翼線に弾む「タイムリー2塁打」に。 2塁から明大の 1年先輩・糸原が生還。星野氏の追悼試合で後輩コンビが 1点を奪った。
「後輩として、甲子園で結果を残せて良かったです」
高山の言葉にもしっかり「後輩」の 2文字が含まれていた。
偉大なる先輩から、何度も激励の言葉を授かってきた。タテジマで新人王に輝いた翌年の2017年 1月。明大野球部祝勝会でも、星野氏が笑って語りかけた。
「首位打者を獲るのは何年後や」
元阪神タイガース監督の星野仙一氏=阪神甲子園球場
偉大なる大先輩は報道陣にも「ことしが首位打者へのきっかけになる年」とも断言した。それぐらいの期待を受けながら、裏切るシーズンになった昨年。ことしこそ…。そんな矢先の訃報。恩返しは、レギュラーを奪取し、打ちまくる以外にない。
もう 1人の後輩は、レギュラー獲得へまっしぐら。 4回の高山タイムリーのおぜん立ては、糸原の中前打から始まった。
「打席の中で自分の形で打てています」
7回二死満塁からの 1塁線の打球( 1ゴロ)も、 9回二死 1、 2塁からの 3遊間への打球(遊直)も、いずれも相手の美技に阻止されたが、紙一重。内容的には 3安打だった。
「すごい方ですから…」
4回、右翼線に「タイムリー2塁打」を放った高山俊外野手。明大魂で打った一打だ=阪神甲子園球場
そう表現した闘将からは、昨年暮れの殿堂入り祝賀会で声を掛けられたのが最後。「頑張れよと言われて、しっかり頑張ります、と答えました」。 闘将がタテジマに残した「戦うDNA」。先頭に立って引っ張っていくのは、明大の後輩たちの宿命だ。
☆明治大學の後輩で、星野仙一監督時代は専属広報だった平田勝男チーフ兼守備走塁コーチ
「しっかりせーや、と思ってられると思います」
★明治大學OB会も
1塁側のアルプス席には明治大學のユニホームを着た明大硬式野球部OB会のメンバーが駆けつけていた。駿台倶楽部関西支部の国重義博さん(51)は高山、糸原ら明大の後輩が次々と活躍したことに「うれしいですね」とニッコリ。試合後は「星野氏をしのぶ会」に参加した。
3回裏阪神二死、福留孝介外野手は「左中間2塁打」を放った=阪神甲子園球場
福留孝介外野手が 2塁打を放った。
今年 1月に死去した星野仙一氏の追悼試合に志願出場。 1回の第 1打席は見逃し三振に倒れたが、 3回の第 2打席ではカウント 1- 1からの 3球目を左中間へ。 2塁打とした。
星野氏への感謝の言葉を並べた福留は「まだまだ元気に頑張りますよ、ということは見せられたんじゃないでしょうか」と語った。
3回、 2塁打を放った福留孝介外野手=阪神甲子園球場
思いを打球に込めた。星野氏の追悼試合に志願してオープン戦に初出場した福留が、快音。恩師に捧げたのは19年前のプロ初安打と同じ 2塁打だった。
「プロに入って、監督の前で初めて打ったのが 2塁打。きょうも 2塁打なので、監督が見ているんだろうなという思いがありました」
3回二死から打席に入ると、笠原の直球を一閃。打球は左中間を突き破り、悠々と 2塁まで到達した。脳裏に浮かんだのはプロ 1年目で迎えた1999年 4月 4日の広島戦(ナゴヤドーム)。日本生命から中日を逆指名して、「1位」で入団、当時指揮を執っていた星野氏の前で放ったプロ初安打が 2塁打だった。「何か縁があるのかなと思います」としみじみと振り返った。
その直後の 4月28日の阪神戦(同)では「本塁打、3塁打、2塁打」を放ち、単打が出れば、サイクルヒットという終盤に、守備固めに久慈(現阪神内野守備走塁コー)を送られた。守りが課題だった愛弟子に「替えのきかない選手になれ」というメッセージだった。
「確かに厳しさっていうのはあったけど、そのなかに『この人についていきたい』という優しさ、温かさがあった。だから耐えられる」
志願のオープン戦初出場で、 3回、左中間への 2塁打を放った福留孝介外野手。感謝の一打だ=阪神甲子園球場
愛情に裏打ちされた厳しさが成長の源。大型新人の活躍もあり、リーグ新記録の「開幕11連勝」を決めた中日はこの年セ・リーグを制した。
星野氏の代名詞だった背番号「77」をつけてナインとともにプレーした。
「実際につけてみて、この背番号がどれだけ重たいものか感じました」と改めて恩師の偉大さを実感した。
「僕の中では永遠に監督。この世界に入るきっかけを作ってくれた。監督がやってきた野球を、監督のもとで野球をやってきた一人として若い選手に伝えていけたらと思います」
星野氏が阪神で成し遂げられなかった「日本一」へ-。闘将の魂を継承した主将がチームを引っ張り続ける。
☆オープン戦初出場の福留孝介について片岡篤史ヘッド兼打撃コーチ
「バットも振れているし、左中間に強い打球。順調に来ている」
1回、適時打を放つウィリン・ロサリオ内野手=阪神甲子園球場
★監督前が指定席
中日のルーキー時代、福留のベンチの指定席は星野氏の前だった。 「たくさんの話をしていただいた。 1年目から怒られながらベンチで監督の前に座って、ずっと野球をやってきた」 40歳になり、阪神では主将。ナインに話す内容は星野氏から学んだことが自然と出る。「今、後輩に野球の話をするときも、僕が発する言葉っていうのは監督から教えてもらったもの」。闘将の遺伝子は脈々と受け継がれている。
★福留孝介外野手と星野仙一氏
鹿児島県曽於郡大崎町出身の福留は小さい頃から、当時、近くの宮崎県串間市でキャンプを張っていた中日に憧れがあった。PL学園高 3年秋、1995年のドラフト会議では巨人、中日を意中の球団として、指名を待った。星野氏が指揮を執っていた中日を含む高校生最多の 7球団から指名を受け、交渉権を引き当てた近鉄への入団を拒否。日本生命に進み、 3年後の1998年秋のドラフト会議で中日を逆指名し、「1位」で入団。守備に課題があった福留だが、星野氏は根気強く起用し、 1年目の1999年は 132試合に出場、「打率0.284、16本塁打、52打点」をマークし、「リーグ優勝」に貢献した。
阪神先発の秋山拓巳投手=阪神甲子園球場
開幕ローテ入りが当確している秋山拓巳投手が、今年初の甲子園で好投した。
先発として 5回まで登板したが、許した安打は初回のアルモンテの 2塁打のみ。72球で 5回無失点に抑え 7三振を奪った。
試合後は「原口がうまく内外の配球をしてくれたんで、いいカウント作りができた」とオープン戦初マスクの原口文仁捕手に感謝した。秋山はオープン戦 3戦で「防御率0・00」と好投を続けているが、ストレートを課題に挙げ「危ない球もあった。それを減らしていけばもっと生きてくると思う」。さらなる上昇を目指す。
5回を投げ 7奪三振無失点でマウンドを降りる秋山拓巳投手(右)は笑顔を見せて原口文仁捕手と握手する=阪神甲子園球場
非の打ち所がない。秋山の投球を見守った金本監督の一言にすべてが凝縮された。
「文句のつけようがないですね」
5回 1安打無失点。無四球で 7三振を奪った。結果もさることながら、内容も充実。若き右腕は本番を見据え、同一リーグの中日相手に“煙幕”を張っていたのだ。
5回 1安打無失点の秋山拓巳投手。金本知憲監督からは「文句のつけようがない」-=阪神甲子園球場
「昨年とは違うところを見せられたと思う。違うところを見せておくと、(相手も)対策を練ってくると思いますし、それを利用できる。そういう意味でも、いろいろ見せられた」
1回には「4番」の福田を、昨年は右打者に使用頻度の少なかったフォークで空振り三振に仕留めた。「右にフォークを使って、結果を出せた」。一方で左打者に新球のチェンジアップを駆使した。隠すのではなく、新たなスタイルを披露し、敵軍を惑わすことができれば、配球の幅は格段に広がる。
金本知憲監督が絶賛=阪神甲子園球場
実際、順当にいけば、シーズンの初陣は開幕カード 2戦目の31日の巨人戦(東京ドーム)が有力。そして、翌週には中 5日に詰めることも選択肢のひとつとして、この日、対戦した中日戦( 4月 6~ 8日、京セラドーム)が控える。それだけに同学年の原口の好リードも相まって、収穫たっぷりの72球になった。
「(課題は)真っすぐの精度。危ない球もあったので、減らしていければ、もっと(配球が)生きてくると思います」
背番号「77」をまとった特別な一戦でも、自身の投球を貫いた若武者。課題がすぐに口をつくほど、地に足はついている。昨季「12勝」からのさらなる飛躍の予感が漂う。
「オープン戦で成績が悪い球団ほど、公式戦になれば良い成績で終わる」というジンクスが有るが、今年はタイガースが優勝するかも知れませんね。
全員野球でファン皆が待ち望む「二文字」に向かって、全員で力を合わせて進め! ガンバレ!阪神!我らのタイガース!勝利を掴め!
全身全霊を懸けて不屈の精神で立ち向かう。たとえ、どんなに苦しい局面になろうとも、最後の最後まで絶対に勝負を諦めない。
その精神を全員が強く持ち、タイガースが変革し続ける一年にしたい。そうした強い決意をスローガンとして表現しています。
※このスローガン・デザインは、2018年のシーズンロゴとしても展開して参ります。
2018年オープン戦順位表
2018年 オープン戦・公式戦 日程と結果(03月)
2018年 公式戦 日程と結果(04月)