●プロ野球元広島の衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)が23日夜、上行結腸がんのため、東京都内で死去した。関係者が24日、明らかにした。衣笠氏の通夜はこの日午後に東京都内で近親者らにより行われた。都内の自宅マンション前には報道陣約20人が集まった。ブルーシートの目隠しがされ、弔電などが届いたほかは、静寂に包まれた。
●金本知憲監督(50)が24日、衣笠氏の訃報を悼んだ。広島時代の大先輩の訃報に、驚きを隠せなかった。この日は愛媛・松山でのヤクルト戦は雨天中止。衣笠祥雄氏(享年71)の背中を追って、現役時代に「1492試合連続フルイニング出場」の世界記録を樹立した金本知憲監督は24日、ヤクルト戦が雨天中止となった松山で取材に応じ、訃報に驚きを隠せなかった。「NPB歴代2位」の「1914試合連続出場中」の鳥谷敬内野手(36)は、改めて畏敬の念を口にした。実母が大の衣笠ファンで「ゴリさん」と呼んでいた。いつの間にか、自分も好きになった。球場に足を運べば必ず「ゴリさん」がいた。バットを構え、フルスイングしていた。これがプロだと思った。1975年、広島が「初優勝」。1987年、衣笠氏が「連続試合出場の世界記録を樹立」したセレモニーでは場内が暗転した中、光線とともに浮かび上がった鉄人の姿に惚れた。弱肉強食のプロの世界。その中で、石にかじりついてでも試合に出続けて結果を出す執念こそ今、求めているものだ。松山は涙雨に濡れた。25日のヤクルト戦から、また仕切り直し。鉄人魂を注入していく。
●鳥谷敬内野手が24日、元祖・鉄人の訃報に寂しげな表情を浮かべた。元広島の衣笠祥雄氏が前日23日に死去。鉄人の系譜を受け継ぎ、会えば言葉を交わす間柄だっただけにしんみり。自身は現役選手トップで「プロ野球歴代2位」の「1914試合連続出場」中。衣笠氏のプロ野球記録、「2215試合連続出場」を追う立場ということもあり、大先輩を思った。22日の巨人戦(甲子園)に代打で登場して、2004年 9月 9日からスタートした記録を「1914」にまで伸ばしている。訃報は昼のニュースで知った。雨天中止が決まった坊ちゃんスタジアムで報道陣に囲まれると、静かに思い出を語った。レギュラーを奪回し、大記録に迫ることが、見守ってくれた故人への恩返しになる。
●福留孝介外野手(40)は24日、衣笠氏の訃報に胸を痛めた。チームは「3連敗」中で、 4戦連続 2得点以下。雨天中止になり語気を強めた。
●江夏豊氏(69=野球解説者)、ショック-「江夏の21球」などで23日に死去した元広島の衣笠祥雄さんと公私にわたる親交が広く知られる江夏豊氏は24日、ショックを隠せない様子だ。この日、松山坊ちゃん球場でのヤクルト-阪神戦を解説するため、羽田空港から松山入り。松山空港で報道陣に対応した。
記事をまとめてみました。
<ヤクルト-阪神>◇雨天中止◇24日◇松山中央公園野球場坊っちゃんスタジアム
プロ野球元広島の衣笠祥雄氏が23日夜、上行結腸がんのため、東京都内で死去した。関係者が24日、明らかにした。
衣笠氏の通夜はこの日午後に東京都内で近親者らにより行われた。都内の自宅マンション前には報道陣約20人が集まった。午後 4時過ぎに関係者とみられる男性ら出入りする姿などがあったが、ブルーシートの目隠しがされ、弔電などが届いたほかは、静寂に包まれた。近所に住む女性は、「よくお散歩していた姿を見かけたのに…」と穏やかで優しい衣笠氏の死を悼んでいた。
衣笠祥雄氏の訃報を受けて取材に応じる江夏豊氏=松山空港
プロ野球広島で中軸打者として活躍し、プロ野球記録の「2215試合連続出場」で「鉄人」と呼ばれて国民栄誉賞も受賞した衣笠祥雄氏が23日夜に上行結腸がんのため東京都内で死去した。71歳。京都府出身。関係者が24日、明らかにした。
金本知憲監督が24日、衣笠氏の訃報を悼んだ。
「何年か前から体調が悪いというのは聞いていたんですけど、元気な姿とか見せていたので、良くなっているのかなと思っていた最中なので、ビックリしたのが正直あります」
広島時代の大先輩の訃報に、驚きを隠せなかった。 この日は愛媛・松山でのヤクルト戦は雨天中止になり「やりたいな、やっぱな。今週はな。試合も少ないし。 9連戦前と考えればいいのかな」と話した。
練習中、故衣笠祥雄さんの思い出などを語る金本知憲監督=松山中央公園野球場坊っちゃんスタジアム・室内練習場
鉄人魂を伝えていく! 衣笠祥雄氏(享年71)の背中を追って、現役時代に「1492試合連続フルイニング出場」の世界記録を樹立した金本知憲監督は24日、ヤクルト戦が雨天中止となった松山で取材に応じ、訃報に驚きを隠せなかった。「NPB歴代2位」の「1914試合連続出場中」の鳥谷敬内野手は、改めて畏敬の念を口にした。
♪打てよ祥雄 どでかいホームラン-。金本監督は 7歳の少年に戻っていた。広島市民球場のスタンドから背筋を伸ばして、衣笠氏の姿を追っていた。オカンがいっていた通り、格好よかった。
金本知憲監督(右)は現役時代に衣笠祥雄氏(左)から“鉄人”の肩書を引き継いだ。その精神を伝えていく
「休まないということに関しては一番、影響を受けた人。俺が野球をみるキッカケもオカンがカープ、キヌ(衣笠)さんを好きになってね。(生前、衣笠氏は)『元気だよ』といってくれていた。びっくりしたというのが正直あります」
実母が大の衣笠ファンで「ゴリさん」と呼んでいた。いつの間にか、自分も好きになった。球場に足を運べば必ず「ゴリさん」がいた。バットを構え、フルスイングしていた。これがプロだと思った。1975年、広島が「初優勝」。1987年、衣笠氏が「連続試合出場の世界記録を樹立」したセレモニーでは場内が暗転した中、光線とともに浮かび上がった鉄人の姿に惚れた。
金本知憲監督は松山で衣笠氏死去について神妙な表情で取材に応じた=松山中央公園野球場坊っちゃんスタジアム・室内練習場
「とにかく休まず出る。少々のけがでも出る。カープのときからも衣笠さんという存在が、やっぱり大きかった。(試合に)出ることへの責任感というかね。中心選手は常にグラウンドに立っていけないといけない。無言の(責任感を)ね、示した人。なおかつ成績を残すというね」
弱肉強食のプロの世界。その中で、石にかじりついてでも試合に出続けて結果を出す執念こそ今、求めているものだ。
「今年入って星野(仙一)さんも亡くなられた。それぞれの方の思いとか、やってきたことを引き続き、僕が継承するというか、そこまでいえばオーバーかもしれないですが、先輩方の思いを大事にしてやっていきたいです」
松山は涙雨に濡れた。25日のヤクルト戦から、また仕切り直し。鉄人魂を注入していく。
衣笠祥雄氏の死去を受け、取材に応じる金本知憲監督=松山中央公園野球場坊っちゃんスタジアム・室内練習場
★阪神・掛布雅之SEA
「江夏さんの自宅で、衣笠さんと食事を一緒にさせていただく機会があり、『4番』として、すべての試合に出る大切さを教えてもらいました。『ホームランやヒットも大事だけど、三振する姿やエラーする姿、グラウンドで掛布雅之の野球のすべてをさらけ出すことが大事』と。その言葉があったから1981年から 5年連続で全試合に出場することができました。私にとっては野球人生のターニングポイントになった出会いでした」
鳥谷敬内野手が24日、元祖・鉄人の訃報に寂しげな表情を浮かべた。
元広島の衣笠祥雄氏が前日23日に死去。鉄人の系譜を受け継ぎ、会えば言葉を交わす間柄だっただけに「頑張って、という言葉はかけていただいた」としんみり。自身は現役選手トップで「プロ野球歴代2位」の「1914試合連続出場」中。衣笠氏のプロ野球記録、「2215試合連続出場」を追う立場ということもあり、「内外野関係なしに、ずっと出ることはすごいことだと思います」と大先輩を思った。
打撃練習する鳥谷敬内野手(左)と話す金本知憲監督=松山中央公園野球場坊っちゃんスタジアム・室内練習場
プロ野球元広島の衣笠祥雄氏が23日夜、上行結腸がんのため、東京都内で死去した。関係者が24日、明らかにした。
衣笠氏の連続試合出場記録「2215」に最も近い位置まで来ているのが鳥谷だ。22日の巨人戦(甲子園)に代打で登場して、2004年 9月 9日からスタートした記録を「1914」にまで伸ばしている。
訃報は昼のニュースで知った。雨天中止が決まった坊ちゃんスタジアムで報道陣に囲まれると、静かに思い出を語った。
鳥谷敬内野手(左)にとっても衣笠祥雄氏(右)は“鉄人”の先輩だった
「(毎年、キャンプなどで)『頑張って』と声は掛けていただきました。あいさつした時に話はしていただきました」 感謝の思いは強い。ただ追いかける数字は、はるか遠くに感じている。
「意識したこともないです」
出続けることの難しさを知る男は、軽々に衣笠氏超えと言えない。今はスタメンすら外れているのだから。
「調子を上げていくだけです」
レギュラーを奪回し、大記録に迫ることが、見守ってくれた故人への恩返しになる。
練習に臨む福留孝介外野手=松山中央公園野球場坊っちゃんスタジアム・室内練習場
阪神・福留は24日、衣笠氏の訃報に胸を痛めた。「名球会でもお世話になって、球場でもいつも声をかけていただいた。驚きましたし残念。あまり(体調が)よくないというのは聞いていたんですが、急だったので…」と言葉を絞り出した。
チームは「3連敗」中で、 4戦連続 2得点以下。雨天中止になり「こういうことでも、チーム全体でいいきっかけにしていかなきゃいけない」と語気を強めた。
江夏氏、ショック-「江夏の21球」などで23日に死去した元広島の衣笠祥雄さんと公私にわたる親交が広く知られる江夏豊氏は24日、ショックを隠せない様子だ。この日、松山坊ちゃん球場でのヤクルト-阪神戦を解説するため、羽田空港から松山入り。松山空港で報道陣に対応した。
「ふ~っ」とため息をついた江夏氏は「しょうがないよな。順番だから」とポツリ。これまでの親交を振り返るように「いいヤツを友人に持ったよ。オレの宝物だ。どっちみちワシもすぐ追い掛ける。向こうの世界で野球談議をするよ」と寂しそうに話した。
ブルペンで話す江夏豊臨時コーチ(左)と衣笠祥雄氏(2015年 2月 3日撮影)
また一人…“鉄の意志”を貫いた男が逝く…。
「2215試合連続出場」というまぶしいほどに野球を愛した衣笠祥雄さんが旅立ってしまった。
この日、テレビ解説のために空路、松山空港に降り立った江夏豊氏は親友の訃報に接して…すぐ東京にUターンしたそうである。
衣笠祥雄といえば、どうしても『江夏の21球』のプロ野球日本シリーズに残る不滅の名シーンが忘れられない。
1979(昭和54)年11月 4日、大阪球場。『広島-近鉄』のシリーズは最終戦を迎えた。筆者はこのシリーズは『近鉄監督西本幸雄』の日本一への戦いを追っていた。 4- 3と広島が 1点リードして最終回…江夏が大ピンチに立つ。無死満塁とアノ豪気の江夏が追い詰められた。
江夏が、猛牛打線の前に「無死満塁」という状況に追い詰められた。なにしろ当時は一世を風靡した“西本打法”の西本監督が手塩にかけた打者たちがグルリと江夏を取り囲み、絶体絶命なのだ。しかも打席には強打者佐々木恭介が立つ。
と、この時、広島ベンチ古葉監督は北別府と池谷の 2枚看板をブルペンに走らせた。いうならば“次善の策”で当然の準備なのだが、みるみるマウンドの江夏豊の顔が明らかに“怒気”を含んで自軍のベンチ( 3塁側)の監督古葉をニラミつけている。そんなに俺が信用できんのかッ…。
無死満塁にしてしまったのは江夏なのだ。
1979年、伝説の「江夏の21球」。江夏豊(左)の粘投の裏には衣笠氏の優しさがあった
しかし…赤ヘルのリーグ優勝をもたらしたのも江夏豊なのだ。そのリーグV決定の試合を広島市民球場の放送席で解説していた阪神元監督村山実はハラハラと落涙する。「俺は江夏を優勝させてやれなかった…」と。
だが…最終戦の最終回の江夏の怒りは尋常ではなかった。と、そこにスッと一塁手の衣笠祥雄が江夏に近づいてきて、ゾクリとこう言った。
「おい、ベンチをみるな!(おまえが野球を)辞めるなら、俺も一緒に辞めてやる…」
この時、筆者は大阪球場記者席のバッテリーの真後ろ、記者席の最前列に黒江透修氏(当時巨人)と並んで至近距離からその21球の人間ドラマをみつめることになった。
このひと言で江夏はハッとわれにかえった。いまやるべきことは“何か”を悟った。その言葉に救われた。
そして球史に残る『江夏の21球』は広島に日本一をもたらした。
気がつくといつの間にか大阪球場に降り注ぐ“秋雨”は悲運の将・西本幸雄の肩を情け容赦なく濡らしていた…。
もちろんルーゲーリッグ(ヤンキース)の世界記録を更新する連続出場達成への数々の金字塔と努力と汗…何よりも人間くさく挑み続けた結果、衣笠祥雄は「国民栄誉賞」にも輝いた…。
数々の栄光…だけど、筆者は39年前のヤケドしそうな場面で衣笠祥雄が江夏豊にかけたその言葉の奥に、彼の持つ“やさしさと温かさ”、何よりも「人の心がわかる…」という、それでいて71年間、彼が背負ってきた彼自身の有為転変の痛みをも感じて…ただ感謝するのみである。
★江夏豊氏の話
「いずれ誰しもが通る道。だけど、早すぎた。 3日くらい前に電話でしゃべったところだった。そのときはまあまあ元気だった。ちょっとの間、(天国で)一人で寂しいとは思うけど、すぐに追いかけるから」
全員野球でファン皆が待ち望む「二文字」に向かって、全員で力を合わせて進め! ガンバレ!阪神!我らのタイガース!勝利を掴め!
全身全霊を懸けて不屈の精神で立ち向かう。たとえ、どんなに苦しい局面になろうとも、最後の最後まで絶対に勝負を諦めない。
その精神を全員が強く持ち、タイガースが変革し続ける一年にしたい。そうした強い決意をスローガンとして表現しています。
※このスローガン・デザインは、2018年のシーズンロゴとしても展開して参ります。
2018年公式戦順位表
2018年 公式戦 日程と結果(04月)
2018年 公式戦 日程と結果(05月)