Quantcast
Channel: 阪神ファンの障碍(害)者アスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 5167

東京新たに340人感染!前週平均上回る日も!東日本大震災発生から10年迎える、被災地で祈り!

$
0
0

東京都は10日、「新型コロナウイルス」の感染者が新たに 340人報告されたと明らかにした。累計は11万4201人となった。

政府の「新型コロナウイルス感染症対策分科会」の尾身茂会長(71)は10日の「衆院厚生労働委員会」で、今後の感染状況に関し述べ、感染力が強いと指摘される変異株に対し、監視態勢強化の必要性を強調した。厚生労働省は10日、「新型コロナウイルス変異株」の国内感染例について、 9日までに21都府県で計 271人確認したと発表した。 5日時点と比べると新たに広島が加わり、77人増加した。空港検疫では74人の感染が確認されており合計で 345人となった。集計には含まれていないが、北海道や愛媛でも「変異株感染者」が報告されている。「変異株」は、感染力が強いとされ、厚労省は急速に拡大するリスクを懸念。政府の「新型コロナ対策分科会」の尾身茂会長は10日の「衆院厚生労働委員会」で指摘、警戒感を示した。国が監視を続ける主な「変異株」は、英国、南アフリカ、ブラジルで報告されている 3種類。日本では現在、「英国株」が大半を占める。厚労省によると、国内で報告数が最も多いのは大阪の62人。次いで、埼玉41人、兵庫38人、新潟32人となった。 6日以降の報告77人は全て「英国株」の感染だった。

前東京都知事の舛添要一氏(72)が、「新型コロナウイルス変異株」の検査を徹底しない政府を厳しく批判し、「日本は終わる」と警鐘を鳴らした。舛添氏は10日、ツイッターを更新。検査が進まない状況に憤った。

戦後最悪の自然災害となった2011年 3月の「東日本大震災」は11日、発生から10年を迎えた。死者、行方不明、震災関連死は計約 2万2000人。被害が大きかった岩手、宮城、福島3県の各地では早朝から人々が手を合わせ、犠牲者を悼んだ。午後には政府主催の追悼式を東京都内で開催、天皇、皇后両陛下が初めて出席される。大震災は11年 3月11日午後 2時46分ごろ発生、宮城県で「最大震度7」を観測した。警察庁や岩手、宮城、福島 3県警によると全国の死者は 1万5900人、行方不明者は2525人に上る。避難中の持病悪化などによる震災関連死は3775人。

「東京電力福島第1原発事故」から10年を迎えようとする中、電力業界や自民党内には事故後凍結されていた新増設について、解禁を模索する動きが出てきている。昨年10月の菅義偉首相の50年までに「温室効果ガス排出」を実質ゼロにすると表明したことが背景にある。放射線量は低減され、作業環境は改善されたが、厳重な健康管理に「新型コロナウイルス対策」も加わった。汚染水から放射性物質を取り除いた「処理水」が増え続け、まもなく上限に達するが、処分方針は決まっていない。課題は山積みだ。作業員は約4000人。厳重な「放射線量管理」に加え、「コロナ対策」も行う。毎日、スマートフォンのアプリで家族も含めた健康状態を報告する。 2月13日に福島県で最大震度「6強」を観測した地震で、多少の影響はあった。大型タンク53基の位置がずれた。 1号機の原子炉格納容器内の水位が低下し、今後注水量を増やす方針。震災直後の余震が落ち着いた後、これほど大きな地震はなかったという。目標工程では廃炉までに今後20~30年かかる。

「東京電力福島第 1原発事故」で国の避難指示が出た福島県大熊町や浪江町など11市町村のうち、避難解除された区域に住民票を置く人で、実際に居住するのは31.・6%にとどまることが 9日、各自治体への取材で分かった。解除地域に住民票があるのは 4万5491人で、居住しているのは 1万4374人だった。

「東日本大震災」直後、岩手県宮古市から宮城県石巻市までの沿岸部 150キロを約2週間、お経を唱えながら歩いた人がいる。禅宗別格本山・石雲禅寺(岩手県盛岡市)の小原宗鑑副住職(38)。あれから10年。10年前の経験の結論は今も出せていない。震災発生から約 3週間後の 4月 1日に寺を出た。暗闇の中、到着した宮古・浄土ケ浜の林にテントを張った。惨状に声が出なかった。がれきに合掌することが精いっぱいだった。

宮城県仙台市出身の岩井俊二監督(58)は、「東日本大震災」発生 1年後の12年 3月、NHKの復興支援ソング「花は咲く」の作詞を担当した。発生から10年目の今年、鈴木京香(52)、西田敏行(73)をはじめ岩手、宮城、福島 3県ゆかりの俳優らが歌詞を朗読でつなぐ映像「花は咲く 2021」を監督した。岩井監督が10年、抱き続けた被災地への思いと、未来への願いを語った。発生から10年の今、「コロナ禍」が世界を直撃したことは考える機会だという。10年が経過したからこそ期待もある。

東北のために、動き続ける。楽天田中将大投手(32)が、発生から10年を迎える「東日本大震災」への思いを語った。今季、米国から 8年ぶりに古巣へ復帰。復興へ進む被災地で腕を振り、後世へつなぐために発信し続けることの意味を口にした。あれから10年。今年で33歳の田中将が、時の流れに向き合った。 8年ぶりの日本、古巣復帰。海の向こうからでも、やれること、やるべきことはやってきた。ただ、被災地に寄り添うことで、見えてくるものもある。復興と比例して、人間の記憶も薄れていく。17年から被災地の小学校訪問を開催。風化との闘いから目を背けない。11年当時は、シーズン中にも被災地を訪問した。13年の歓喜をもう 1度。ファンは楽天の「背番号18」に願いを込める。

阿部壮汰さん(18)は「東日本大震災」直後、楽天・田中将大投手から勇気をもらった。避難所を訪問したプロ野球選手に目を輝かせた野球少年は、その時もらったサインボールを宝物に、この10年を走り続けてきた。静かな日は波の音が聞こえる。宮城・東松島の自宅の部屋で、阿部さんは大事そうに軟式球を手に取った。背番号「18」、楽天田中に書いてもらった。11年 4月 8日は、特別な 1日になった。楽天の選手たちが、避難所になった大曲小にやって来た。小学 3年生だった阿部さんの自宅は津波で全壊。波に追われながら車で逃げ、内陸の母親の実家に避難していた。約 1カ月ぶりに「大曲ドリームズ」のチームメートたちと再会し、一緒に到着を待った。平石洋介外野手(現ソフトバンク・コーチ=40)が投げてくれた球を思い切り振った。体を動かしたのは、久しぶりだった。いろんな選手からジャンパーにサインをもらったが、手元にあったボールは練習球が 1つだけ。「チームの顔」と、迷わず田中に書いてもらった。昨春から東北学院大工学部で学ぶ。「コロナ」で描いていたキャンパスライフは送れていないが、準硬式でプレーも続ける。この10年、苦しい時も、楽しい時も、部屋に飾った宝物を見て過ごした。少年が手に入れた大事な宝物。今までも、これからも、特別な 1球だ。

記事をまとめてみました。

 

 東京都は10日、「新型コロナウイルス」の感染者が新たに 340人報告されたと明らかにした。累計は11万4201人となった。

 都内は「緊急事態宣言」後に続いた減少のペースが鈍化。直近 7日間の平均が前週を上回る日も出てきており、再拡大への懸念も出ている。

 

 政府の「新型コロナウイルス感染症対策分科会」の尾身茂会長は10日の「衆院厚生労働委員会」で、今後の感染状況に関し「早晩、変異株が主流になる」と述べた。感染力が強いと指摘される変異株に対し、監視態勢強化の必要性を強調した。

 全国各地で変異株の感染が広がっているとして「間違いなく既存株に取って代わるプロセスが始まっている」と言及。大学や医療機関、検査機関の協力を得て「オールジャパンでモニタリングを強化することが急務だ」とした。

 感染者数の減少が鈍化している要因について、「緊急事態宣言」の発令地域でも会食が増えている状況を挙げ「国や自治体のリーダーから、今まで以上に強く、納得感のあるメッセージを出すことが極めて重要だ」と語った。立憲民主党の大島敦氏への答弁。

 「新型コロナウイルス対策分科会」の尾身茂会長 (2020年 7月22日撮影)

 厚生労働省は10日、「新型コロナウイルス変異株」の国内感染例について、 9日までに21都府県で計 271人確認したと発表した。 5日時点と比べると新たに広島が加わり、77人増加した。空港検疫では74人の感染が確認されており合計で 345人となった。集計には含まれていないが、北海道や愛媛でも「変異株感染者」が報告されている。

 「変異株」は、感染力が強いとされ、厚労省は急速に拡大するリスクを懸念。政府の「新型コロナ対策分科会」の尾身茂会長は10日の「衆院厚生労働委員会」で「早晩、変異株が主流になる」と指摘、警戒感を示した。

 国が監視を続ける主な「変異株」は、英国、南アフリカ、ブラジルで報告されている 3種類。日本では現在、「英国株」が大半を占める。「南ア株」と「ブラジル株」は感染力の増加に加えて、免疫に影響を及ぼす恐れがあり、一部のワクチンで効果が弱まる可能性などが指摘される。

 厚労省によると、国内で報告数が最も多いのは大阪の62人。次いで、埼玉41人、兵庫38人、新潟32人となった。 6日以降の報告77人は全て「英国株」の感染だった。

 感染者の情報を共有するために国が開発したシステム「HER-SYS」(ハーシス)に入力があった分を集計した。

 国にはまだ報告が来ていない地域ごとの発表では、このほか北海道で13人、愛媛で 4人の感染などが確認されている。青森でも「変異株」の感染が 1人報告されているが、変異の種類が違うため国の監視対象外という。

 「変異株」の拡大を受け、国は各自治体で「変異株のPCR検査」ができるように体制を整備。 2月22日から28日までに約1200件の検査が行われた。

 

 舛添要一氏 (2019年10月21日撮影)

 前東京都知事の舛添要一氏が、「新型コロナウイルス変異株」の検査を徹底しない政府を厳しく批判し、「日本は終わる」と警鐘を鳴らした。

 舛添氏は10日、ツイッターを更新。「変異株検査、 1週間で1234人のみ」と、 2月22日から28日までに行われた「変異株のPCR検査」に言及し、「検査を徹底しろと 1年間言い続けたが無駄」と、検査が進まない状況に憤った。

 「厚労官僚を動かすのが厚労相ではないのか。官僚機構全体を動かすのが首相ではないのか。担当大臣を 3人作っても役立たず」と批判。「日本は終わる」とした。

 

 「東日本大震災」から10年、岩手県陸前高田市に昇る朝日と「奇跡の一本松」

 戦後最悪の自然災害となった2011年 3月の「東日本大震災」は11日、発生から10年を迎えた。死者、行方不明、震災関連死は計約 2万2000人。被害が大きかった岩手、宮城、福島3県の各地では早朝から人々が手を合わせ、犠牲者を悼んだ。午後には政府主催の追悼式を東京都内で開催、天皇、皇后両陛下が初めて出席される。「東京電力福島第 1原発事故」の影響は今も残り、約 4万1000人が全国で避難を続ける。

 役場庁舎や敷地内で町長ら職員28人が津波の犠牲となった岩手県大槌町では、庁舎跡地を町関係者や遺族が訪れ献花した。当時、町の防災担当だった平野公三町長は「この深い悲しみはどんなに時が流れても果てることはない」と厳しい表情で話した。

 「東日本大震災」から10年、朝日に照らされる岩手県大槌町

 旧庁舎は存廃を巡り町の意見が二分されたが、19年に解体された。職員の兄健さん(当時30)が今も行方不明の倉堀康さん(37)は「本当に早い10年だった」と振り返る。「二度と同じような犠牲が出ないよう、ここで起きたことを伝えていかないといけない」と誓った。

 岩手、福島両県警は沿岸部で行方不明者を捜索。

 大震災は11年 3月11日午後 2時46分ごろ発生、宮城県で「最大震度7」を観測した。警察庁や岩手、宮城、福島 3県警によると全国の死者は 1万5900人、行方不明者は2525人に上る。避難中の持病悪化などによる震災関連死は3775人。

 東日本大震災から10年、仙台市若林区荒浜地区の海岸で朝日を見つめる女性。津波で中学、高校の同級生を失った。

 

 「東京電力福島第1原発事故」から10年を迎えようとする中、電力業界や自民党内には事故後凍結されていた新増設について、解禁を模索する動きが出てきている。

 昨年10月の菅義偉首相の50年までに「温室効果ガス排出」を実質ゼロにすると表明したことが背景にある。

 東京電力福島第1原発構内。処理水などを保存する大型タンクが立ち並ぶ

 2010年策定の「エネルギー基本計画」で20年までに 9基、30年までに14基の新増設が明示されていたが、11年の東電の事故を受け、着工済みの 3基をのぞき、新増設を認めない方針へ転換。自民党中心の政権になった12年以降も、 2回の計画見直しがあり、14年 4月には再稼働方針を明記した基本計画を閣議決定したが、新増設方針は盛り込まれていなかった。

 経産省は先月24日、エネルギー基本計画の改定に向けた有識者会議を開催。経団連が新増設を明記するよう求めた。ただ、経産省幹部は「原発への信頼が取り戻せていない状況」の中で「建て替え方針を計画に明記するのは厳しい」との見方を示している。

 東京電力福島第1原発のある建物には、津波の痕跡が残されていた。建物中央に津波の高さを示すサインがあった.

 「東京電力福島第1原発事故」から10年が経過する。東京電力がこのほど、「日本記者クラブ取材団」に原発構内を公開。日刊スポーツから近藤由美子記者が参加した。

 放射線量は低減され、作業環境は改善されたが、厳重な健康管理に「新型コロナウイルス対策」も加わった。汚染水から放射性物質を取り除いた「処理水」が増え続け、まもなく上限に達するが、処分方針は決まっていない。課題は山積みだ。

◇   ◇   ◇

 灰色や薄い青色の大型タンクが至るところに立ち並ぶ。数の多さが異様に映った。汚染された地下水や雨水がセシウムなどの放射性物質を除去後、処理水としてタンクで保存される。タンク総数は1061基。容量は計 137万トン分だが、すでに 124万トンの処理水が貯蔵されている。

 東京電力福島第1原発構内を回るバスの中で、毎時28.3マイクロシーベルトと比較的高い数値を示した場所もあった

 20年末にできた新タンクエリアを見学した。タンクの側面に貼り合わせた溶接の跡が見えた。タンクは直径12メートル×高さ12メートル。同エリアは道幅が狭く大型車両が通れないため、タンクの材料を持ち込み、その場で制作したという。設置場所確保にも苦慮していることがうかがえる。現段階で今後のタンク増設計画はない。

 20年の汚染水発生量は1日平均約 140トン。 3号機のカバー建設や天候の関係で19年より減ったが、タンクが満杯になるのは22年秋以降。処理水をどうするかは差し迫った大きな問題だ。国が海洋放出を検討しているが反対の声も多く、方針が発表されていない。

 東京電力福島第 1原発の 2号機

 作業員は約4000人。厳重な「放射線量管理」に加え、「コロナ対策」も行う。毎日、スマートフォンのアプリで家族も含めた健康状態を報告する。ある職員は「『コロナ感染』してクラスターが発生したら廃炉作業に影響が出るので、みんなピリピリしている」と明かした。

  2月13日に福島県で最大震度「6強」を観測した地震で、多少の影響はあった。大型タンク53基の位置がずれた。 1号機の原子炉格納容器内の水位が低下し、今後注水量を増やす方針。担当者は「注水する水は循環させ再利用しているので、汚染水が大きく増えることはなく問題はない」と強調した。震災直後の余震が落ち着いた後、これほど大きな地震はなかったという。

 東京電力福島第 1原発の 3号機

 震災と事故の痕跡は今も残る。まだ、地面に倒れたままの鉄塔の一部があった。放射線量は毎時 1マイクロシーベルト以下地点もあれば、水素爆発した 3号機横では毎時 385マイクロシーベルトと高い数値を示していた。

 目標工程では廃炉までに今後20~30年かかる。ある職員はこの10年を「早かったような、まだまだのような。半々です」と振り返った。大型廃棄物保管庫など、まだ造成中の施設もあった。道のりの遠さと険しさを実感するばかりだ。

 東京電力福島第 1原発構内に捨てられたゴミや資材

○…廃炉作業は一進一退だ。今年開始予定だった 2号機の「溶融核燃料(デブリ)」取り出し作業を延期した。「コロナ感染拡大」による英国での機器開発の遅れが原因。東電は工程遅延を 1年程度にとどめたい意向だ。一方、 2月28日に 3号機の使用済み核燃料プールに残っていた燃料 566体の取り出しが完了した。炉心溶融(メルトダウン)した 1~ 3号機では初めて。 1~ 6号機の燃料取り出しは31年に完了する予定。プールに残った燃料取り出しも大きな課題の1つで、 1、 2号機には計1007体ある。

 

 東京電力福島第 1原発で担当者から説明を受ける日本記者クラブ取材団

 「東京電力福島第 1原発事故」で国の避難指示が出た福島県大熊町や浪江町など11市町村のうち、避難解除された区域に住民票を置く人で、実際に居住するのは31.・6%にとどまることが 9日、各自治体への取材で分かった。

 解除地域に住民票があるのは 4万5491人で、居住しているのは 1万4374人だった。居住者数には廃炉作業が続く第 1原発や復興の関連で転入した作業員らも含まれ、避難先から戻った住民の数はさらに少ない。避難元の自治体から住民登録を外す人も増えている。福島県の内堀雅雄知事は 8日、居住率の低迷について「住民が『古里に戻っても良い』と思える環境づくりをしたい」と述べた。

 

 震災直後に沿岸部を歩いてお経を唱えた石雲禅寺の小原宗鑑副住職

 「東日本大震災」直後、岩手県宮古市から宮城県石巻市までの沿岸部 150キロを約2週間、お経を唱えながら歩いた人がいる。禅宗別格本山・石雲禅寺(岩手県盛岡市)の小原宗鑑副住職(38)。あれから10年。「自分の中で、何が変わったかも分からない。誰かの役にたったとも思っていません」。10年前の経験の結論は今も出せていない。

 震災発生から約 3週間後の 4月 1日に寺を出た。「誰かに寄り添ったり出来るかもしれない」。そんな思いもあった。暗闇の中、到着した宮古・浄土ケ浜の林にテントを張った。夜明け。見えた風景に「頭の中と現実が一致しなかった」。

 僧衣に着替えても「ちゅうちょしていた」。通りがかった中年女性から「あんた、何してんの? その服を脱いでボランティアでもしたら」の声。背筋が伸びた。ようやく歩き出したが、惨状に声が出なかった。「助けを呼ぶ声をお経でかき消してしまうのでは。ご遺体を探している御家族に死を突きつけてしまうのでは」。がれきに合掌することが精いっぱいだった。

 石雲禅寺の玄関にかけられている托鉢(たくはつ)笠

 たまらず師匠の中島紹信住職に電話した。「何も出来ないことを学んできなさい」。鎖につながれてたままの犬。浜辺で倒れた雌牛の乳房を真っ黒なカラスがつついていた。「数え切れない命が失われている」。拝みは謝罪に近かった。

 大船渡市では遠縁の依頼で体育館の遺体安置所へ。約 100体を拝んだ。一方で、隣接グラウンドでは笑顔で元気にサッカーをする子どもたちの姿。死と生、静と動があった。「無があるからこそ、有るということが引き立った」。

 石雲禅寺には不登校の子どもたちや、生きる中で悩みを抱える人らも修行体験に訪れる。震災以降、毎月11日を「知足の日」と定め、当時の被災地の生活を共有している。 1日、白米とみそ汁だけ。農家の苦労、調理してくれる人の思い、太陽や生命の恵み。「有る」ことに感謝する。「普段は食い散らかす子どもも残さず食事し、お風呂もきれいに入るようになった。言葉で言われなくても、伝わることがある」。

 石雲禅寺の禅堂

 拝んで歩いたからこそ、より学んだこともある。考えるだけでなく行動する。「両方が整えられて初めて実を結ぶ」。

○…石雲禅寺には「知足観音像」がまつられている。宮城県大崎市の知人からの寄贈。震災を乗り越えて頑張ってきた子どもたちに、がれき木材を使ったトロフィーを贈るイベントで、木材の中に混在した観音様があった。小原さんは「ご縁があって、ここに来た。顔に傷があり、手や足は折れていますが、すでにそのような姿であったのかと思うくらいバランスが取れている。自らの足るを知っている姿として名付けました」。来訪者も手を合わせる。

◆小原宗鑑(おばら・そうかん)

 1983年(昭58) 1月 7日生まれ、岩手県盛岡市出身。幼少期から母と通った座禅をきっかけに、地元中学卒業後に奉仕活動なども学ぶ一燈園高(京都)に進学。06年に東洋大文学部インド哲学科卒。08年から石雲禅寺で、町や家を拝んでまわる托鉢(たくはつ)や座禅、作務と呼ばれる畑仕事、庭木手入れなども行う修行中。

 

 宮城県仙台市出身の岩井俊二監督は、「東日本大震災」発生 1年後の12年 3月、NHKの復興支援ソング「花は咲く」の作詞を担当した。発生から10年目の今年、鈴木京香、西田敏行をはじめ岩手、宮城、福島 3県ゆかりの俳優らが歌詞を朗読でつなぐ映像「花は咲く 2021」を監督した。岩井監督が10年、抱き続けた被災地への思いと、未来への願いを語った。また日刊スポーツのリクエストに「花は咲く」の、その先のメッセージを寄せた。

◇   ◇   ◇

 震災発生時、米ロサンゼルスに滞在していた岩井監督は 4月に帰国し、 5月に宮城県荒浜、石巻、塩釜を回った。その後、作詞の打診を受けたが、復興支援というコンセプトに違和感を覚えた。

 「震災は人それぞれ向き合い方があり、大勢でスクラムを組んで歌う応援歌より、 1人が向かい合いやすいんじゃないかと。イマジネーションの源泉、聖地でもある仙台に、懐かしさと愛情を込めて私の言葉として書いた。ご家族を亡くした方のお話を聞く機会があって、人と人の関係は互いの記憶によって成り立っている…その尊さについて、ものすごく考えさせられた。生きていようがいまいが、大切な人を身近で感じ続けることは大事だろうと」。

 「東日本大震災」発生から10年、抱き続けた被災地への思いと、未来への願いを語った岩井俊二監督 (所属事務所提供)

 この考え方は、18年に仙台で初めて撮影した映画「ラストレター」など、震災後の作品に通底している。

 「共通しているのは、亡くなった存在があって、というところ。近しい人が亡くなった時、どう受け入れ、どうなっていくのか。『ラストレター』で、さらに具体的に物語として描いた気がする。意識的に繋がったというより、この10年で自分の中の一大テーマだった。何をやっても、そういう作品になっていった」。

 同じチームで今年、撮った映像で「花は咲く」の歌詞と再び向き合った。

 「大切な方を亡くされた方々にとっては、時計が止まっているような状態もあるだろう。原点回帰というか今も傷つき、苦しい思いをされる方に、思いをはせることに意味があると思う」。

 11年夏、東京は「20年五輪」の開催都市に立候補。12年には正式な立候補都市に選定された。この頃から、疑問を抱いてきた。

 「やっぱり、ケガを負ったんだと思うんですね。日本を 1つの命として考えれば、大事に治すタイミングはあるはず。五輪は国が健康な状態の時にやるべきこと。被災地の治療に集中しなきゃいけない、お金も投じなきゃいけない時期に五輪事業を始めた。無理やり立ち上がろうとしたからケガが悪化し、異常な予算の高騰に繋がったりとか。本当に五輪は無理して、転ぶを繰り返していた気がする」。

 岩井俊二監督が、「東日本大震災」発生から10年にあたり、寄せた直筆メッセージ

 発生から10年の今、「コロナ禍」が世界を直撃したことは考える機会だという。

 「世界中が、いやがおうでも立ち止まらなきゃいけない状況になったことで、やっと少し立ち止まれるタイミングを得たようにも見える。考え、反省して、未来を進んでいくためにも震災とそれからの10年間を振り返りながら、傷の具合を見てやっていく必要がある」。

 10年が経過したからこそ期待もある。

 「人生において、ものすごい強烈な体験をした人たちが打ち負けるのかというと、逆にタフな人間を生み出すだろうという期待もすごくある。原発事故の問題を、何とか解決しようという研究者、復興を頑張ろうという中である種の進化を遂げていく若い子だったり。“震災世代”が活躍する日は必ず来るというイメージは、ずっと持っている」。

◇   ◇   ◇

◆「ラストレター」岸辺野裕里(松たか子)は姉未咲の葬儀で、姉の面影を残す娘・遠野鮎美(広瀬すず)から未咲宛ての同窓会の案内と残した手紙の存在を告げられる。姉の死を知らせるために同窓会に行き、姉と勘違いされた裕里は、自身の初恋の相手乙坂鏡史郎(福山雅治)と再会。未咲のふりをして鏡史郎と文通を始めるが、その内の 1通が鮎美に届いてしまう。そのことをきっかけに、鮎美は過去をたどり始める。

 

 11年 5月、仙台市の被災した小学生を招き、ボールをプレゼント

 東北のために、動き続ける。楽天田中将大投手が、発生から10年を迎える「東日本大震災」への思いを語った。今季、米国から 8年ぶりに古巣へ復帰。復興へ進む被災地で腕を振り、後世へつなぐために発信し続けることの意味を口にした。

 あれから10年。今年で33歳の田中将が、時の流れに向き合った。

 「長く戦っていかないといけないこと。僕自身、オフシーズンはそういう何かしらの場を持たせていただいて一緒に何かをやったりはしている。そこに対する思いは変わらない」

  8年ぶりの日本、古巣復帰。海の向こうからでも、やれること、やるべきことはやってきた。ただ、被災地に寄り添うことで、見えてくるものもある。

 「まだ完全に復興したわけではないし、東北にいれば身近に感じる部分はあると思う。日本にいる期間も長くなるわけですし。キャンプが始まった沖縄から、ずっと仙台以外で過ごしているので、本拠地に戻っていろいろやる中でいろいろ感じることもある」

 12年12月 被災地福島を訪れた楽天田中将大投手(中央左)、広島中村奨成捕手(同右)や選手たちと笑顔で「Vサイン」

 日本に戻ってきたからこそできること、とは。

 「今の段階で言えることではないけど、考えていることもある。そういうのも含めていろいろとやっていけたら」

 復興と比例して、人間の記憶も薄れていく。17年から被災地の小学校訪問を開催。風化との闘いから目を背けない。

 「発信し続けないと違う地域に住んでいる子たちは分からないだろうし、知らないことはたくさんあると思う。今までも僕もできる限りのことはやってきたけど、発信していくことで何か意味があるんじゃないかと思って続けている」

 11年当時は、シーズン中にも被災地を訪問した。

 「訪問した際に受け取り手側がどう感じられたかは選手たちには分からない。ただ、逆に僕たちが元気をもらったというか、みんながパワーをもらった気持ちにはなった」

 20年1月、仙台市立東宮城野小学校を訪問。前列左から楽天釜田佳直投手、辛島航投手、ヤンキース田中将大投手、則本昂大投手、松井裕樹投手

 13年の歓喜をもう 1度。ファンは楽天の「背番号18」に願いを込める。

 「周りのみなさんが期待してくださっているところはあると思う。そこの期待を超えていくのが選手として必要なことだとは思っている。自分のできることは1試合1試合、1球1球しっかりと投げていく。チームの勝利のために貢献していく。自分のできることをやる。それをやっていくことで皆さんの期待と結果が直結していくと思う」

 イーグルスが再び東北に歓喜をもたらした時、そこから見えるものとは。

 「それは(日本一に)なってみないと分からない。でもそれが何かマイナスになることは絶対ない。また盛り上がってくれるとうれしい。実際に応援してくださる方々の声はやっぱり届いていますし、またみんなで喜びを分かち合いたいと思っている。そこに向けてみんなで一緒に戦っていきたい」

 

 阿部壮汰さんは「東日本大震災」直後、楽天・田中将大投手から勇気をもらった。避難所を訪問したプロ野球選手に目を輝かせた野球少年は、その時もらったサインボールを宝物に、この10年を走り続けてきた。

◇   ◇   ◇

 静かな日は波の音が聞こえる。宮城・東松島の自宅の部屋で、阿部さんは大事そうに軟式球を手に取った。「宝物です。真っ白なサインボールも飾ってますけど、特別な存在感。少し汚れてて、サインも消えかかってますけど」。背番号「18」、楽天田中に書いてもらった。

 10年前に避難所を訪れた楽天田中将大投手に書いてもらったサインボールを手にする阿部壮汰さん

 11年 4月 8日は、特別な 1日になった。

 楽天の選手たちが、避難所になった大曲小にやって来た。小学 3年生だった阿部さんの自宅は津波で全壊。波に追われながら車で逃げ、内陸の母親の実家に避難していた。約 1カ月ぶりに「大曲ドリームズ」のチームメートたちと再会し、一緒に到着を待った。「誰が来るか知らなくて。タクシーから田中選手や嶋選手が降りてきて『すごい。まじかー』て」と、今でも興奮を思い出す。平石(現ソフトバンク・コーチ)が投げてくれた球を思い切り振った。体を動かしたのは、久しぶりだった。

 いろんな選手からジャンパーにサインをもらったが、手元にあったボールは練習球が 1つだけ。「チームの顔」と、迷わず田中に書いてもらった。「大きな手で握手してくれました。見上げる感じ。大きかった」。元気が湧いてきた。

 11年 4月、宮城県東松島市立大曲小学校を訪れた楽天田中将大投手が乗るタクシーを多くの人が囲む

 野球を続けた。石巻工ではケガもあり、最後は控え。それでも 3年間やり抜いたのは、震災の経験があるという。「負けたくなかった。震災の時、生きるために頑張った先に普通の生活が待っていた。小さかったけど『頑張る』ことは、すごく意味があると思いました」。もう 1つ、選手たちと接し感じたことがある。

 「 1つのことを極めた人たちからもらえる力って、すごいんだなと。プロという名前がつかない人でも、職人だったり、何かを極めた人たちは尊敬します。自分は、まだ学生で、進路もフラフラしてますけど、何か 1つのことを極めたい」

 昨春から東北学院大工学部で学ぶ。「コロナ」で描いていたキャンパスライフは送れていないが、自宅を再建してくれた大工の姿から物作りに興味を持った。将来は「漠然としてますが、自分で作業して何かを作り出したい」と志す。「野球のおかげで出会いがあった。感謝してます」と、準硬式でプレーも続ける。

 11年4月、宮城県東松島市立大曲小学校を訪れ「大曲ドリームス」の野球少年にメッセージボードを渡した嶋基宏捕手(左)と田中将大投手

 この10年、苦しい時も、楽しい時も、部屋に飾った宝物を見て過ごした。「今まで野球を続けているのも何かあるのかなと、このボールを見ると思います。田中投手が帰ってきた。うれしいです」。少年が手に入れた大事な宝物。今までも、これからも、特別な 1球だ。

◆楽天の避難所訪問

 11年 4月 8日、 4グループに分かれ宮城県内の避難所を訪れた。星野監督、田淵、佐藤両コーチは山元町。鉄平、岩隈、銀次らは女川町。嶋、田中、平石、青山らは東松島市。山崎、高須、松井らは名取市と仙台市。前日 7日に関西から空路山形経由で、震災後初めて仙台に戻った。その足で、星野監督、田淵、佐藤両コーチは仙台市内の避難所を訪れた。 7日深夜には「マグニチュード(M)7.1」の余震が起き、仙台・宮城野区では震度「6強」を記録した。

 

 

 早いモノで、震災から11年目になってしまいました。

 高校時代の友達が住んでいる事も有り、震災後何回被災地(福島県いわき市小名浜)に行った事でしょう。

 震災直後頃に行った時の事は、ブログで既に載せているので、読んでくれた方も居ると思います。 

 最後に訪れたのは、昨年の事でした。すっかり姿を変えてしまった町を見てガッカリしてしまいました。

 今日TVを見ていて、報道系番組で「魚市場が新しい場所に移り、2015年に旧建物は解体されました」と言っていたけれど、昨年も解体されたはずの建物を見てきました。キチンと調査した上での報道なら良いのですが…

 

 

 

 

 

ペタしてね

 


人気ブログランキング

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


Viewing all articles
Browse latest Browse all 5167

Trending Articles