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1988年沢村賞の大野氏、完全試合 1度、ノーヒットノーランを 3度達成の外木場氏「殿堂入り」!

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 野球殿堂入りを決める野球体育博物館は11日、大野豊氏(57)と外木場義郎氏(67)をそれぞれプレーヤー表彰とエキスパート表彰で選んだと発表した。
 特別表彰では小倉中(現小倉高)でエースとして全国高校野球選手権大会を 2連覇した福嶋一雄氏(82)が殿堂入りしたと発表した。
記事をまとめてみました。

$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-野球殿堂入りした大野氏、外木場氏、福嶋氏ら
 野球殿堂入りした(前列左から)大野豊氏、外木場義郎氏、( 1人おいて)福嶋一雄氏と記念撮影する(後列左から)山本浩二WBC日本代表監督、古葉竹識・東京国際大学野球部監督、有本義明氏、松永怜一氏(前列右から 2人目は加藤良三・野球体育博物館理事長)

 野球殿堂入りを決める野球体育博物館は11日、競技者表彰としてプロ野球広島の投手として活躍した大野豊氏(57)と外木場義郎氏(67)をそれぞれプレーヤー表彰とエキスパート表彰で選んだと発表した。昨年の故津田恒実氏と北別府学氏に続く広島勢の選出となった。
 特別表彰では小倉中(現小倉高)でエースとして全国高校野球選手権大会を 2連覇した福嶋一雄氏(82)が殿堂入りしたと発表した。
 大野氏は先発と救援の両方で22年間、チームを支えた。外木場氏は完全試合を含む3度の無安打無得点試合を達成し、1975年には広島の初優勝に大きく貢献した。


$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-大野豊氏、外木場義郎氏、福嶋一雄氏
 野球殿堂入りした(左から)大野豊氏、外木場義郎氏、福嶋一雄氏

▽大野豊氏の話:やってきたことが認められてうれしい。自分に携わってくれたたくさんの方々に感謝の気持ちでいっぱい。テストで入ってまさかこういう日を迎えられるとは。野球への思いや打ち込んできた気持ちを認めていただいたと思う。

▽外木場義郎氏の話:まさかという気持ち。感無量。積み重ねが評価されたのかなと思う。マウンドに上がったら、誰にも負けないという気持ちで向かっていった。若いときに厳しい練習に耐えられたことが、その後につながった。

▽福嶋一雄氏の話:身に余る栄誉。本当に光栄で感激している。 3連覇を狙って甲子園に行って、準々決勝で敗れた。もう甲子園には来られないのだなと思ってセンチ(メンタル)になって、砂をポケットに入れた。野球はわたしにとって青春です。

 野球殿堂入りを決める野球体育博物館は11日、競技者表彰として広島の投手として活躍した大野豊氏と外木場義郎氏をそれぞれプレーヤー表彰とエキスパート表彰で選んだと発表した。昨年の故津田恒実氏と北別府学氏に続く広島勢の選出となった。特別表彰では小倉中(現小倉高)でエースとして全国高校野球選手権大会を 2連覇した福嶋一雄氏が殿堂入りした。ドラフト外入団で初の殿堂入りを果たした大野氏は、感謝の独占手記を「サンスポ」に寄せた。
 こんな日が来るとは夢にも思っていなかった。軟式野球出身の田舎のサラリーマン。広島入団は1976年、テスト生だった。エリートでもない私が殿堂入りの栄誉をいただいた。1998年 9月27日の引退試合で話した「我が選んだ道に悔いはなし」。その言葉があらためて脳裏によぎった。感慨深い。
 プロ初登板が原点だ。旧広島市民球場であった1977年 9月 4日の阪神戦。制球が定まらず、一死を取っただけで 5失点KOされた。防御率にして135.00。終わったと思った。誰にも会いたくない。合宿所まで約 3キロの道のりを 1人で歩いて帰った。悔しいという感情じゃない。情けない。恥ずかしい。涙が出た。
 母・富士子の一言が忘れられない。打ち込まれたことを電話で伝えると、「 1試合の失敗で諦めちゃダメよ」と冷静に諭された。母を楽にしたいと思って入ったプロ。くじけるわけにはいかない。覚悟を決めた。


$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-津田恒実さんのレリーフにと声をかける大野豊氏
 亡き津田恒実さんのレリーフに「ひさしぶりだな」と声をかける大野豊氏

 島根・出雲市信用組合での 3年間が生きた。いわゆる銀行マン。窓口業務があれば、預金獲得のノルマもある。若造にいきなり大口契約は難しく、地道に足を運んで件数で数字を達成するしかない。一度断られたぐらいで、くじけてはいられない。野球だって同じだ。大事なのは粘り、積み重ね。負けたくない、認められたいと思えば、練習で体を動かすしかない。
 出会いにも恵まれた。中でも江夏豊さん。 2年目の1978年。南海から移籍され、以降の 3年間、お世話になった。軟式の社会人時代、希望してつけた私の背番号は「28」。それぐらい憧れた人。まさか見てもらえるとは思わなかった。
 指導が支えになった。制球力をつけるため、同年春のキャンプで左肩が下がり、右肩が上がる悪癖をスクエアに修正。シーズン中にはビンタももらった。場所は神宮。普段から「キャッチボールをおろそかにするな」と教わっていたが、当日は肘が痛く、思うところに投げられない。痛みを理由にもできず、「きょうのお前は何だ」となった。
 現役生活22年。手を出されたのは、江夏さんと古葉監督の 2回だけだ。古葉さんは同じ失敗を嫌う。四球を出して打たれた時に手が出た。うれしかった。師匠であり恩師。ふがいない私を何とかしようと向けられたビンタ、その痛みとぬくもりは今でも忘れられない。
 てんぐには絶対なるまいと思ってやってきた。無理して愛想よくしているのでは…と言われたこともある。が、どんな実績があっても野球を取ればただの人だ。その思いは変わらない。出会いに、お世話になったすべての人に感謝したい。そして家族。母と妻、 2人の娘の協力と支えがあったからこそ、こうした栄誉をいただけたと思う。
 私は体力、技術、精神力のすべてが足りない選手だった。軟式出身でもできる。テスト生上がりでもできる。この受賞が若い選手たちの励みになればうれしい。


$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-力投する広島時代の大野豊氏
 1997年 6月、力投する広島時代の大野豊氏

◆大野豊(おおの・ゆたか):1955年(昭30) 8月30日、島根県生まれ。出雲商から出雲信用組合を経て1976年ドラフト外で広島入団。社会人時代は軟式だったが、入団テストに合格した。リリーフで活躍し、1984年から先発転向。1988年には防御率1.70でタイトルを獲得し、沢村賞に選ばれる。再びリリーフに戻った1991年には最優秀救援投手。1997年には42歳で 2度目の防御率のタイトルを獲得する。1998年に現役引退。1999年に広島投手コーチに就任も、 1年でユニホームを脱ぎ解説者となった。2004年アテネ、2008年北京五輪で日本代表投手コーチ。2010年に広島のヘッド兼投手コーチ就任も2012年オフに退団した。

$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-殿堂入り通知書を受ける外木場氏
 野球体育博物館・加藤理事長から殿堂入り通知書を受ける外木場氏(左)

 元広島・外木場氏は感無量の面持ちで晴れの舞台に立った。「僕の年齢では難しいと思った。信じられない。本当にうれしい」。67歳での殿堂選出。エキスパート表彰で当選ラインちょうどの29票を集めた。沢村栄治(巨人)と並ぶ歴代最多 3度のノーヒットノーラン(完全試合 試合を含む)は、何げない記者の言葉がバネとなった。
 プロ 2度目の先発だった1965年10月 2日の阪神戦(甲子園)でノーヒットノーランを達成したが、試合後の取材中に「こういう記録を残すと短命だけど」と声をかけられた。外木場氏は「それならもう一回やってやろう」と反骨心に変えた。
 弱小球団だった広島に1965年入団。「まさか優勝できるとは思わなかった」という1975年シーズンは20勝を挙げ、球団初優勝の原動力となった。「直球とカーブ。 2つだけの球種にすべてをかけた」という野球人生。現在は広島市内で 3つの中学生チームを指導している。外木場氏は「初優勝が一番の宝物だったが、この賞が一番になった。子供たちにもいい報告ができる」と目を潤ませた。


$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-大洋戦で完全試合を達成した広島時代の外木場義郎氏
 1968年 9月、大洋戦で完全試合を達成した広島時代の外木場義郎氏

◆外木場義郎(そとこば・よしろう):1945年(昭20) 6月 1日、鹿児島県生まれ。出水高から電電九州を経て1965年に広島に入団。1968年には21勝をマークするなど 2桁勝利を 8度記録。20勝を挙げた1975年に最多勝、最多奪三振、沢村賞のタイトルを獲得。広島のリーグ初優勝に貢献した。完全試合 1度を含め、ノーヒットノーランを 3度達成。通算 131勝 138敗 3セーブ。

 伝説を残してきた福嶋氏にとっても、殿堂入りは特別だった。「甲子園のマウンドよりも緊張しております」。表彰のあいさつで、自らをリラックスさせるかのように初めの一言を発した。「身にあまる栄誉で光栄です。当時のチームメートに恵まれました」と、約60年以上も前にともに戦った仲間に感謝した。
 下手投げの右腕は、戦後間もない甲子園を熱狂させた。1947年夏。旧制小倉中のエースとして全 5試合で完投し、九州勢初の優勝旗を持ち帰った。新制高校の最初の夏の甲子園となった翌1948年、全 5試合連続完封で連覇を達成したが「勝った試合より負けた試合を覚えている」と明かしたように、その名を伝説にしたのは翌1949年のエピソードだった。


$阪神ファンのアスリート・虎ちゃん77のスポーツ日記-八幡製鉄時代の福島一雄氏
 八幡製鉄時代の福島一雄氏

  3連覇を目指したが、準々決勝の倉敷工戦で敗戦。 9回でマウンドを降り、ゲームセットを左翼で迎えた。球場から退場する際、ホームプレート付近から敗戦の結果が記されたスコアボードを見た。「『もう 2度と来られないんだな』とセンチになって。そこからは無意識だった。土をほんの一塊、後ろのポケットに入れた」。現在では当たり前となった“風景”の始まりだった。
 大会後、大会副審判長の長浜俊三氏から手紙が届いた。「君のポケットに入った土にはすべてが詰まっている」と記されていた。「学校では教わらないものを教わった。それを人生の糧としてきた…」。福嶋氏は思わず声を詰まらせた。
 ポケットから取り出した土は、自宅のゴムの木の鉢に混ぜ込んだ。「今も大事にしてる。それを見て勇気づけられます」。福嶋氏にとって、野球とは「やっぱり青春」。今の高校球児にも、土とともに人生の糧を持ち帰ってほしい。穏やかな表情には、そんな願いが込められていた。


◆福嶋一雄(ふくしま・かずお):1931年(昭 6) 1月 6日、福岡県生まれ。1947年夏の全国中等学校野球大会に小倉中学のエースとして甲子園大会に出場し、見事に優勝。翌1948年、新制高校初年度の夏の甲子園大会で、小倉高のエースとして優勝。戦前の嶋清一(海草中)以来となる 5試合連続完封を記録し、夏の甲子園大会 2連覇を果たした(春夏通算で17勝)。1950年に早大入学。野球部で 4度のリーグ優勝に貢献するなど通算13勝を挙げた。1954年、八幡製鉄に入社し、同年の都市対抗野球でもエースとして活躍。その後は日本野球連盟理事などアマチュア球界の要職を歴任した。

▽野球殿堂:日本野球の発展に大きな貢献をした人物の功績を永久に称え、顕彰するため1959年に創設。競技者表彰と特別表彰がある。競技者表彰は2008年から、現役引退後 5年以上経過した人で候補入りしてから15年間が選考対象となるプレーヤー表彰と、現役以外の監督やコーチ、または選手引退後21年以上経過した人が対象となるエキスパート表彰に二分された。プレーヤー表彰は野球報道経験15年以上の新聞・通信、放送の記者(今回 328人)、エキスパート表彰は競技者表彰で殿堂入りした野球人(同30人)と競技者表彰委員会幹事18人(同計48人)。いずれも有効投票数の75%以上の得票で選出される。


 かつては、元巨人の選手が占めた時代も有った「野球殿堂入り」。今度は 2年連続で元広島の選手が占めた。
 大野豊と言い、外木場義郎と言い実に良い選手だった。彼らがいたからこそ、古葉監督時代に優勝まで行けたと言っても過言では無いだろう。
 両人に「おめでとうございます」と言ってあげたい。







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