14日に死去した 三国連太郎(みくに・れんたろう、享年90本名・佐藤政雄=さとう・まさお)さんの代表作の 1つとなった1988年12月24日公開の「釣りバカ日誌」(栗山富夫監督)の、追悼緊急上映が15日、決まった。
三国連太郎さんの息子で俳優佐藤浩市(52)が15日、都内で、父親との最後に対面した時の様子について語った。
深い苦悩や怒りを描き出したと思えば、人間的な優しさや善意を紡ぎだして笑いを呼ぶ…。“変幻自在”の国民的名優が惜しまれつつ逝った。
妻の友子さん(63)によると、三國さんは約 1年前から足腰が弱くなったことなどで入院。亡くなる前日の13日夜まで食事をとるなど元気だったが、その後容体が急変。友子さんが病院に駆けつけた直後に息を引き取ったという。記事をまとめてみました。
三国連太郎さんの代表作の 1つとなった1988年12月24日公開の「釣りバカ日誌」の、追悼緊急上映が15日、決まった。
配給の松竹が同日、発表した。20日から26日まで東京・丸の内ピカデリーで毎日、朝 1回上映される。
父三国連太郎さんが死去し心境を語る佐藤浩市
14日に死去した俳優三国連太郎さんの息子で俳優佐藤浩市が15日、都内で、父親との最後に対面した時の様子について語った。佐藤によると、入院中だった三国さんは、13日には夕食を食べるなど元気だったが、その後嘔吐(おうと)、翌14日朝にも嘔吐し血圧も上昇、約 2時間後に帰らぬ人になったという。
映画「飢餓海峡」や「釣りバカ日誌」シリーズなどで知られる俳優、三國連太郎さんが14日午前 9時18分、急性呼吸不全のため東京・稲城市の病院で死去した。90歳だった。個性派俳優として日本映画界を引っ張ってきたが、体調を崩し約 1年前から入院生活をしていた。長男で俳優の佐藤浩市(52)は「親父は死に顔にも威厳があった」と三國さんのようすを明かした。
強烈な個性で存在感を発揮し続けてきた三國さん。戒名はつけず「三國連太郎」らしく旅立った
深い苦悩や怒りを描き出したと思えば、人間的な優しさや善意を紡ぎだして笑いを呼ぶ…。“変幻自在”の国民的名優が惜しまれつつ逝った。
妻の友子さんによると、三國さんは約 1年前から足腰が弱くなったことなどで入院。亡くなる前日の13日夜まで食事をとるなど元気だったが、その後容体が急変。同日深夜から翌14日朝にかけ 2度嘔吐(おうと)し、体温と血圧が低下。友子さんが病院に駆けつけた直後に息を引き取ったという。
長男の佐藤は15日、都内で「ここ数年で一番凛(りん)とした顔にみえて。不思議な三國連太郎の威厳があって、涙は出ませんでした」と振り返り、三國さんから「戒名もいらない、散骨して誰にも知らせるな。三國連太郎のままで逝く」との“遺言”を受けていたことを明かした。
三國さんは1951年、木下恵介監督の「善魔」で主演デビュー。新聞記者役の役名がそのまま芸名となり、 1メートル80の長身と独特の存在感で一躍スターとなった。1965年の「飢餓海峡」で殺人を繰り返しながら逃亡する強盗犯を熱演するなど、名優の地位を確立した。
三國連太郎さん(1972年)
真骨頂は徹底的な役作り。1957年の映画「異母兄弟」では、老人役のために上下10本以上の歯を抜いて挑んだというエピソードはあまりにも有名。メガホンをとった[親鸞・白い道」で1987年のカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞するなど、監督としても才能を発揮した。
19688年には映画「釣りバカ日誌」に出演、釣り好きの建設会社社長、スーさんをコミカルに演じて新境地を開拓。22年間にわたる人気シリーズとなった。
数々の華やかなロマンスの主だったが、晩年はどこに行くのも友子さんと一緒だった。「僕のマイナス面を補って、今日まで人付き合いさせてくれた」という明るい友子さんに、亡くなる 2日前の12日、ふいに「港に行かなきゃ。船が出てしまう」と口走ったという。最後まで心優しいスーさんのまま、三國さんは旅立った。
映画「マルサの女2」伊丹十三監督と三國連太郎さん(1987年)
★後日お別れの会
14日死去した俳優の三國連太郎さんの葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日お別れの会が開かれる。喪主は俳優の長男、佐藤浩市。
惜しい人を亡くしましたね。先日は、芸能界のお母さん森光子さんがなくなり、いい役者さんが亡くなっている。
12日、ふいに「港に行かなきゃ。船が出てしまう」と口走ったというが、常にスーさんになりきっていたのですね。
お悔やみ申し上げます。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村
↧
三国連太郎死去、松竹が代表作「釣りバカ日誌」を追悼上映する!佐藤浩市「おやじの死に顔に威厳」
↧